
11月7日生まれのロシア革命の立役者
2. レーニンとは喧嘩も
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トロツキーがレーニンと出会ったのは、最初にヨーロッパに逃亡した際。レーニンに多大な影響を与えた。2人の考え方は対立することも多かった。ロシア社会民主労働党が急進的なボリシェヴィキ(多数派)と穏健的なメンシェヴィキ(少数派)にわかれた時、トロツキーはメンシェヴィキを支持した。これに憤ったレーニンは、トロツキーを「ユダ」と呼び、後のスターリンのプロパガンダのレッテルとなる。トロツキーはやがて自分の立ち位置を変え、1917年ロシア革命にはボリシェヴィキとして参加。雄弁さでペトログラード要塞の守備隊の兵士をボリシェヴィキ側につかせ、レーニンとともにペトログラードの政府施設を占拠し、新政権に入った。
4. 知性があって非情
「トロツキーは本当の意味で知的だった」と、画家ユーリー・アンネンコフは書いている。他の多くのボリシェヴィキの指導者とは異なり、教養があり、礼儀正しく、芸術について喜んで話していたという。
知性はトロツキーを温和にはしなかった。他のボリシェヴィキと同様、革命の敵すべてを倒す「赤色テロ」のコンセプトを支持していた。「非情とは最高の革命的ヒューマニズムである」とトロツキー。ある時、戦闘中に逃げた部隊の10人に一人を銃殺するよう命じた。
6. 外国で殺害
1920年代、トロツキーは「小ブルジョワの傾向」があるとして批判され、地位を失い、同志は政権から排除された。1929年、ソ連国外へと追放された。スターリンのプロパガンダにより、トロツキーのイメージは悪の中心、事実上のソ連神話の悪魔へと変わった。
トロツキーの亡命の申請はヨーロッパ諸国で拒否されたため、メキシコに渡った。亡命生活を送っている間、マルクス主義の観念を裏切ったとして、トロツキーはスターリンとソ連を厳しく批判し続けた。「官僚主義の尻は革命の頭より重い」と表現した。
スターリンは1939年、トロツキーの排除を命令。1年後に60歳のトロツキーをソ連のエージェント、ラモン・メルカデルがアイスピックで殺害した。トロツキーはメキシコで埋葬された。鎌と槌のあるささやかなオベリスクが、かつての偉大なる革命指導者の墓を飾った。
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