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銃弾飛び交う中の「仮面舞踏会」

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「仮面舞踏会」のコスチュームデザイン、アレクサンドル・ゴロヴィン画=アレクサンドリンスキー劇場

現実もまた仮面舞踏会

 悲劇「仮面舞踏会」は、現実に進行していた革命の悲劇とかなり重なり合う面があった。革命の渦中にあったある者は仮面を投げ捨て、またある者は別の仮面を試していたから。

「仮面舞踏会」の場面=アレクサンドリンスキー劇場

 「私はペテルブルクのはずれから『仮面舞踏会』を見ようと出かけた。トロイツキー橋付近の通りの真ん中に、路面電車が、窓が割れ、車輪がひしゃげた状態で横転していた。昼間ちょうどこの通りを群集が進み、『パン』を要求していたのだが、起こったのはそれだけだったのだろうか?夜も散発的な銃声が聞こえた。通りはがらんとしていた。このときはまだ“飢餓の王さま”は“仮面舞踏会”に加わっていなかったが」。ポータルサイト「プロジェクト1917」は、文芸評論家イワノフ=ラズームニクの回想を引用している。

アルベーニンとニーナ=アレクサンドリンスキー劇場

 『仮面舞踏会』のあらすじは次の通り。仮面舞踏会で、仮面をつけたシュトラリ男爵夫人がズヴェズディチ公爵に愛を告白し、自分の記念にと腕輪を与える。ところが、その腕輪は、もう一人のヒロイン、ニーナがたまたま失くしたものだった。ニーナの夫、アルベーニンは、その腕輪が妻のものだと気がつき、妻の浮気を疑う。そして、妻の釈明に耳を貸さず、彼女を毒殺してしまう。やがて真実を知ったアルベーニンは発狂する。

シュトラリ男爵夫人を演じた女優エリザヴェータ・ティメ=アレクサンドリンスキー劇場

 

命がけの上演と観劇

 「初演当日はもう屋外を歩くのは危険だった。劇場のロビーで昼間、どこかの学生が流れ弾に当たって死んだことを知ってから、私たちの興奮は、いやがうえにも増した。にもかかわらず、初演は成功だった。カーテンコールが延々と続いた」。シュトラリ男爵夫人を演じた女優エリザヴェータ・ティメはこう書き残している。

舞踏会の場面、スケッチ=アレクサンドリンスキー劇場

 雑誌「劇場と芸術」は、この初演についてこう書いた。

 「アレクサンドリンスキー劇場で、『仮面舞踏会』が上演された。メイエルホリドは、まるでファラオが自分のピラミッドを造るように、何年もかけて演出を練り上げてきた。もっとも、遠くの街角ではまだ発砲があり、路面電車は動かず、街灯は薄ぼんやりと灯っているだけだった…。個人でやっている御者は、法外な値段をふっかけていた。叫び声が聞こえ、旗を掲げた群衆が集まってた。街はがらんとして、不気味な感じがした。ところが劇場は満席だ。彼らは何という代償を払って観劇にやって来たことだろう!」

舞踏会の場面=アレクサンドリンスキー劇場

 「ゲネプロは、1917年2月末に行われたが、このとき街では銃声が轟いていた。2月革命の一連の事件は、すんでのところでゲネプロを中止に追い込むところだった。というのは、当局から電話がかかって来て、劇団の若いアーティストたちが、思いがけず、兵営に動員されるところだったからだ。すったもんだのあげく、彼らを守ることができた。こういう状況だったが、初演当日はかなり平穏で、舞台は大成功をおさめた」。舞台美術担当のアレクサンドル・ゴロヴィンはこう振り返る。

アルベーニンを演じた俳優ユーリエフ=アレクサンドリンスキー劇場

 

観客の中にバレリーナのマチルダ・クシェシンスカヤも

 「私は危険を冒して、ユーリエフの慈善興業を見るために、アレクサンドリンスキー劇場に出かけた。そこでは、メイエルホリドの演出で、レールモントフの『仮面舞踏会』をやっていた。街は平穏で、無事に往復できた」。このように、バレリーナのマチルダ・クシェシンスカヤは書いている。彼女は噂によれば、皇帝ニコライ2世の愛人だった。

アレクサンドル・ゴロヴィンによるコスチューム・デザイン=アレクサンドリンスキー劇場

 「レールモントフの『仮面舞踏会』の舞台化とは、これはまた何と不気味な象徴になっていることだろう!最近数年を振り返ってみれば、この精神的に腐敗しつつある社会の上層部の生活は、悲劇的な仮面舞踏会にほかならないではないか?都市や農村の片隅には真の生活が隠れているかもしれないが、それもはっきりしない。“上”のほうは、生気のない、半分死んだような人間や、見た目は愛くるしいが幽霊みたいなのや、オカルト好きがいるにすぎない。まさにロシアの生活の悲劇的な仮面舞踏会だ」。イワノフ=ラズームニクはこう記した。

緞帳のデザイン=アレクサンドリンスキー劇場

 

9910日にボリショイ劇場で復活上演

 「ごった返している楽屋裏から俳優用の出入口を通って通りに出ると、驚いたことに、劇場周辺には一台の自動車も辻馬車もないことが分かった。劇場前広場は人っ子一人いなかった。何歩か歩くと、いきなりどこか近くで射撃音がした。びくびくしながら無人のネフスキー大通りを渡り、角を曲がると、目の前にバリケードがあった。ひっくり返した橇や引き出しや柱などで組み立ててあった。今やすべてがはっきりした。革命だ」。舞台美術家のユーリー・アンネンコフはこう書いている。

フセヴォロド・メイエルホリド(中央、右の人へ意見を与えている)が劇団員と一緒に=アレクサンドリンスキー劇場

 「仮面舞踏会」は、現代演劇をリードした俳優、演出家フセヴォロド・メイエルホリドの主な業績の一つ。彼は後に、メイエルホリド劇場を指導するが、1940年に、3週間にわたる拷問の末、銃殺された。

 この伝説の舞台は間もなく、アレクサンドリンスキー劇場で「仮面舞踏会 未来の思い出」と題して、復活上演される。モスクワでも、9月9-10日にボリショイ劇場の舞台で上演。

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シベリアと極東の探検はいかになされたか

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シャーマン、または悪魔の司祭。= 旅行者ニコラエス・ヴィツェン(Nicolaes Witsen)の本による画像

 17世紀初め、ロシアはようやく困難きわまる「大動乱時代」から抜け出そうとしていた。ポーランドのロシア侵略も、ロシア国内の全般的無政府状態も、ついに終わりに近づいていた。1613年に、ミハイル・ロマノフが新しいツァーリとして選ばれ、これがロマノフ朝の始まりとなった。ロマノフ家は、1917年のロシア革命とそれにともなう皇帝ニコライ2世およびその家族の殺害にいたるまで、この国を支配し続けることになるだろう。

 この王朝が君臨し始めた最初の100年間に、ロシアの探検家たちは、カムチャッカ、サハリン、クリル諸島(千島諸島)など、現在、ロシア極東として知られている土地を目指して、遥か彼方の広大な地域へ旅立った。

ヤクーチアとレナ川

画像:ステパン・ジャルキー

 1619年、ロシア軍の部隊は、2000キロメートル以上の旅を経て、エニセイ川にたどり着き、最初のロシアの集落を築いた。同年、彼らは、捕らえた先住民族のエヴェンキ人より、エニセイから1000キロメートルの彼方に別の大河があることを知った。

 ロシア人がこの大河レナを見つけるまでには7年かかった。しかし実のところ、それを見つけたのは、パンテレイ・ピャンダが率いるグループで、商人が自主的に組織した探検隊だった。彼らはロシア人としては初めてヤクーチア(現サハ共和国)に達したのだが、エニセイを発ってから、3年の月日が流れていた。

 ピャンダの探検から2年後の1628年に、ロシア軍将校、ワシリー・ブゴル率いる銃兵部隊が、レナ川に達するもっと便利なルートを見つけたことで、この地域はロシア人にとってより住みやすくなった。まもなく、レナ河岸に要塞が築かれ、これがヤクーツク市の基となった。

 探検家は、シベリアのセーブルの黒い毛皮によって、危険な僻遠の地に引き寄せられた。この毛皮は、当時、最も価値があり頻繁に輸出されたロシア商品の一つだ。

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アムール川と太平洋

画像:ステパン・ジャルキー

 ヤクーツクの木造の要塞から、探検隊はさらに東へ、北極海と太平洋の沿岸部へ向かった。

 1639年、イワン・モスクヴィン率いるコサック部隊は、レナ川の合流点まで、800キロメートルを航行した。彼らはその後、オホーツク海に達するまで、川の流れに逆らって、さらに8週間船旅を続けた。そして彼らは、ウリヤ河口(モスクワから5640キロメートル)に、最初のロシアの集落をつくった。これが現在のハバロフスク地方の起こりだ。

 ロシアの探検家たちは、彼らが上司に報告しているところによれば、「シベリアの川には存在しない魚」を見つけてびっくりしたが、それは太平洋のサーモンだった。

 先住民族エヴェンキから、ロシアの探検家たちは、南のどこかにまた別の大河があることを知った。しかし、その発見はようやく1640年のこと。オホーツク海の海岸沿いに約1000キロ航行し、アムール河口に達した後で見つけたのである。

もっと読む:ロシア極東の探検家の道程を辿る>>>

 しかし、アムール河岸に最初のロシアの要塞が建設されたのは1651年。建設したのはエロフェイ・ハバロフで、彼の名にちなんで後に、この地の都市が、ハバロフスクと命名された。ハバロフが造ったアルバシン要塞は、中国の満州族による頻繁な攻撃にさらされることになる。

 1642年、モスクヴィン率いる部隊とは別の、133名からなるコサック部隊が、アムール川を目指しヤクーツクを発った。彼らを率いたのはワシリー・ポヤルコフ。彼は、その川を進んでいけば中国に行き着くと聞かされたのだった。一行はアムールの流れに沿って河口まで航行。このとき、先住民のアイヌ人が彼らにサハリン島について語った。それによると、この島には、「毛深い人」が住んでいるということだった。

 結局、ポヤルコフ隊133人のうち生きてヤクーツクに戻れたのは20人に過ぎなかった。

コリマ川とチュコトカ(チュクチ半島)

画像:ステパン・ジャルキー

 同年、1642年、ミハイル・スタドゥヒン率いる別のグループが、アムール川を指してヤクーツクから出発。彼らは代わりにコリマ川を発見することになった。彼らは現在、オイミャコンと呼ばれる地域を通って、1000キロ以上歩き通した。これは、冬の気温が摂氏マイナス70度を下回ることもある、地球上で最も寒い場所の一つだ。

 コリマ河畔に、スタドゥヒンは小さな要塞を築き、セミョン・デジニョフという男を隊長として残した。このデジニョフこそ、後に初めて、チュコトカに到達し、アジアとアメリカを隔てる海峡を航海することになる人物。今では、最も有名なロシアのパイオニア、探検家の一人として知られている。ユーラシア大陸最東端の岬は、彼にちなみ、デジニョフ岬と命名された。

 1648年7月、デジニョフは、毛皮やセイウチの牙の交易の可能性を探りながら、彼が「氷の海」(北極海)と呼んだ海に達した。ひどい嵐でデジニョフの船7隻のうち3隻が大破したが、残った船はチュコトカに達した。探検家たちはそこに住んでいたエスキモーを発見し、彼らが身に付けていたセイウチの歯を見て、「歯の人々」と呼んだ。

 デジニョフがアナディリ川に達した時点で、探検隊の3分の2が死亡し、25人しか残っていなかった。彼らはその後20日間を費やして、飢えに苦しめられつつ、山あいを歩きまわったが、人も道も見つけられなかった。こうして彼らは初めてチュコトカに到達したのだった。

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カムチャツカとクリル諸島(千島列島)

画像:ステパン・ジャルキー

 一方、コリマ川を発見したスタドゥヒンは、1651年、オホーツク沿岸を探索しているうちに、カムチャッカの山々を見た最初のロシア人となった――彼方から遠望しただけとはいえ。

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 カムチャッカに実際に足を踏み入れたのは、イワン・カムチャトゥイ。シベリア・コサックで、エニセイからやって来た商人だった。山の名前は彼にちなむ。1658年、彼はセイウチの牙を求めてオホーツク海の北岸に向かった。そこで彼が見つけたのは川真珠だけだったが、地元の人々から南に大きな川があることを知った。この川も後に、彼の名をつけてカムチャツカと命名。結局、半島全体にこの探検家の名が冠せられることになった。

 ロシアから日本に連なるクリル諸島(千島列島)に初めて到達したロシア人が誰かは、はっきりとは分からない。しかし、島々を研究し記述した最初の人物はイワン・コズイレフスキーだった。彼はコサックおよびカムチャツカの人々と一緒に列島に達し、1711〜13年に島を調査し、地図を作製した。

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*この記事は、サイト「DV Land」のロシア語の記事にもとづいている。 

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カッテージチーズの「ガチョウの足」

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材料

・   無塩バター 150グラム

・   ベーキングパウダー 小さじ1/2

 

つくりかた

1.     カッテージチーズと常温でやわらかくしておいた無塩バターをフォークなどでしっかりと混ぜる。なめらかになるまで続ける。

ヴィクトリア・ドレイ

2.     小麦粉とベーキングパウダーをふるい、空気を含ませる。小麦粉を1に加えて、やわらかく、密度の高い生地になるまでこねる。生地をラップに包んで、1~2時間冷蔵庫で寝かせる。生地は冷たく、かたくなり、作業しやすくなる。

ヴィクトリア・ドレイ

3.     小麦粉を少々台にふって、生地をめん棒でのばす。厚さ5ミリにする。直径7センチほどの型をつかって、円をくり抜いていく。型がなくても心配は無用。コップのふちなどを使えば、円の生地ができる。

4.     ここからが大切。円の片面に砂糖をつける。砂糖のついた面を内側にして、円を半分に折る。半円の片面に砂糖をつける。そして砂糖のついた面を内側にして半円を半分に折る。こうして扇形ができる。片面に砂糖をつけ、上向きにして、クッキングシートを敷いた天板に並べる。

ヴィクトリア・ドレイ

5.     180度に熱したオーブンで、黄金色になるまで約30分焼く。フワフワのグシヌィエ・ラプキのできあがり。

ヴィクトリア・ドレイ

もっと読む:トヴァローク 「創造」の名に恥じない乳製品>>

ウラジオ目抜き通りの名所8選

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 ウラジオストク市の目抜き通りは1873年以前、アメリカンスカヤ(アメリカ)通りという名称であった。これは市内初の5キロの大通りで、ロシア帝国艦隊の汽船「アメリカ」号にちなんで名づけられた。

Legion-Media

 アメリカンスカヤ通りはその後、アレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公がウラジオストクに来る際に乗艦した「スヴェトラナ」号にちなんで、「スヴェトランスカヤ(スヴェトラナ)通り」になった。ウラジーミル・レーニンが死去した1924年、スヴェトランスカヤ通りはレーニンスカヤ(レーニン)通りになったが、ソ連崩壊後の1992年にスヴェトランスカヤ通りに戻った。

 スヴェトランスカヤ通りは、金閣湾奥の観覧車や映画館「オケアン」のあるスポルチヴナヤ通りから始まり、湾岸に沿って続く。通りには音楽バー、博物館、主要な商業施設があり、湾やウラジオストクの橋の美しいパノラマだけでなく、他にもさまざまな魅力が備わっている。 

1.     ウラジオストクに恋したアメリカ人女性の銅像

Legion-Media

 アメリカ・メイン州サウス・バーウィック出身のエレノア・ロード・プレイは、19世紀末から1930年までウラジオストクに暮らした。毎日アメリカの家族に手紙を書き、この街の生活の喜びや悲しみをつづった。

 手紙は1990年代、ワシントン州立大学のロシア文学の教授バージッタ・インジェマンソン氏によって発見された。インジェマンソン教授はロード・プレイの思い出を本にして出版。ロシア語版も発行され、その優しさ、情熱、冒険心でウラジオストク市民のお気に入りになった。手紙を手に持つロード・プレイの銅像は、郵便局およびロード・プレイが当時暮らしていた家の近くにある。

2.     ウラジーミル・アルセニエフ沿海博物館

IPAAT/Panoramia

 ロシアの将校ウラジーミル・アルセニエフは1900年、サンクトペテルブルクの上流社会を去り、太平洋岸での野性的な生活を選んだ。ウラジオストクで暮らし、ウスリー川周辺のタイガ(針葉樹林)を探索し、野生のイノシシと戦い、トラに遭遇し、地元の先住民族と触れ合った。 

 アルセニエフが国際的に知られるようになったのは、3部作の「デルス・ウザーラ」を1923年に出版してから。日本の黒澤明監督はこれを元に映画を制作。アカデミー賞外国語映画賞を受賞した。

 スヴェトランスカヤ通りのアルセニエフ歴史博物館には、さまざまな展示品がある。1~2時間の見学で歴史に触れることができる。

 ところで、ウラジオストク最高の土産店があるのがここだ。地元で一番おいしい「鳥のミルク」を買うことができる。

3.     金閣湾の橋

Legion-Media

 2012年ウラジオストクAPEC(アジア太平洋経済協力)首脳会議に向けて建設された、有名なランドマークは、スヴェトランスカヤ通りと交差している。以前はここにプーシキン広場や商船隊の水兵の像があったが、橋の建設により、広場はなくなり、像は数メートル東に移設された。19世紀の建物に入るおしゃれなコーヒー店「カフェトリヤ」は、橋の下に隠れてしまった。大規模な橋の工事があったものの、貴重な建物が残ったことは良かった。 

4.     ウラジオストクGUM

Legion-Media

 ウラジオストクのドイツ・アールヌーヴォーの見事な建築例、「ウラジオストクGUM(総合百貨店)」の建物は、1884年にドイツの商人グスタフ・クンストとグスタフ・アルベルスによって建てられた。今日、ウラジオストクの天候に合わせて暖かいパーカーを買ったりできるだけでなく、内部の博物館を見学することもできる。

 この場所には、2つの都市伝説がある。博物館の建設工事の際、この建物と市内中心部の複数の建物をつなぐ地下トンネルが発見されたという。また、建物の壁の内部に大きな金庫が2つあり、うち1つはまだ開けられていないという。GUMの中庭は、カフェで飲み物を飲みながらおしゃべりしたり、買い物したりできる地元住民のお気に入りの場所である。

5.     太平洋艦隊博物館

写真=太平洋艦隊博物館提供

 1904~1905年のアルトゥール港防衛(旅順攻囲戦)や、1905年の日本海海戦(対馬海戦)で使用された武器は、一見の価値あり。

6.     ウラジーミル・ヴィソツキー像

ロシア通信/ヴィタリー・アンコフ撮影

 1971年、歌手ウラジーミル・ヴィソツキーはウラジオストクを訪れ、コンサートを6回行った。スヴェトランスカヤ通り沿いの劇場辻広場で、30年経過した今もなお心に響く歌を聴くことができる。ギターを抱えるヴィソツキーの銅像には音響装置がついており、歌が日夜、優しく流れている。

7.     「挿入歯」

ロシア通信/ユリー・スミチュック撮影

 ウラジオストクの住人は、沿海地方行政府の建物をこう呼ぶ。市の中心広場の真ん中に立つ、このロシア構成主義の高い建物は、「ホワイトハウス」とも呼ばれている。  地元の作家ヴァシリー・アヴチェンコ氏は、この20階建ての建物を、「知事職に遅れて飛び込み」たい人向きだと述べている。モスクワへの上昇気流をつかまえるができた人や、公判前勾留センターのあるパルチザンスキー大通りへの下降気流にのった人だ。

8.     ソ連の遺産

ロシア通信/ユリー・スミチュック撮影

 スヴェトランスカヤ通りには、ウラジオストクの中心広場「革命戦士広場」がある。ここでは、1917~1922年に極東のソビエト政権樹立のために活躍した戦士の像を見ることができる。モスクワの彫刻家アレクセイ・テネタが制作した像は、1961年に除幕された。当時はスヴェトランスカヤ通りがレーニン広場と呼ばれており、広場の名前も違った。

もっと読む:ウラジオの海に浮かぶスタジアム>>>

アントノフは消えるのか

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An-6、南極観測基地、1967年=G. コポソフ/ロシア通信

 この伝説のソ連の航空機設計局は、1946年の第二次世界大戦終了直後にシベリアで設立され、1952年にはキエフに移された。

オレグ・アントノフ、1974年=ワシーリー・マリセフ/ロシア通信

 ソ連の航空機設計者、オレグ・アントノフが、設計局の最初の主任設計者であった。彼が1984年に死亡したとき、その名が社名に冠せられた。

An-24=セルゲイ・プレオブラゼンスキイ/タス通信

 An-24は、ターボプロップ双発旅客機のレジェンドで、1962年に就航。いまだに世界の航空各社で使われており、航続距離は最大で1000 km。これまでに合計1300機以上が生産されている。

An-12からのパラシュート降下、1967年=A. ポリカシン/ロシア通信

 An-12輸送機は今年で60歳になった。“高齢”にもかかわらず、依然運用されている。長年、An-12とその先輩であるロッキード C-130 「ハーキュリーズ(ヘラクレス)」は、世界で最も数多く運用されてきた輸送機だった。前者は、パラシュート部隊と軍の装備の大量運搬を容易にするソ連最初の飛行機となった。

An-22「アンテーイ」、モスクワの赤の広場で行う戦勝記念日軍事パレードのリハーサル中、2014年=アレクサンドル・ヴィリフ/ロシア通信

 An-22「アンテーイ」は、ターボプロップ輸送/旅客機で、そのユニークな特徴は、遠隔地のあまり整備されていない滑走路、設備の整っていない空港でも離着陸できることだ。

宇宙船「ブラン」を積載したAn-225「ムリーヤ」=イーゴリ・コスチン/ロシア通信

 An-225「ムリーヤ」(ウクライナ語で「夢」を意味する)は、世界最大の輸送機の1つで、たった1機のみ製造された。貨物の積載可能重量を含む、200以上の世界記録をもっており、約50台の車両が飛行機の内部に収まる。An-225は胴体の外にも貨物を積むことができ、宇宙船「ブラン」(ソ連版スペースシャトル)さえ運べる!

An-124 「ルスラーン」に搭載されたスホーイ・スーパージェット100、2014年=マリーナ・リシツェワ/タス通信

 An-124 「ルスラーン」は、量産された機体としては世界最大の輸送機であり、民間と軍用の両方で使用されている。最も高い評価を得た、人気ある輸送機の1つで、最大880人の完全装備の兵士を運ぶことができる。

An-74 =ロシア通信

 厳しい北極条件に耐えるように造られた輸送機An-74は、-60°Cの低温で、雪で覆われたあまり整備されていない滑走路でも運用できる。この機体は、漂流ステーションを設置、支援し、流氷のモニタリングや漁業用の調査などを行うためにも使用される。

テストパイロット ウラジーミル・トゥカチェンコ、1986年=ヴァディム・デニーソフ/ロシア通信

 軍用輸送機An-32は、輸出専用に設計され生産された唯一のソ連の航空機だった。 酷暑のなかでも(最高50°C)飛行することができ、インド、イラク、アンゴラ、コロンビアなどで運用されている。

An-2、ウズベク・ソビエト社会主義共和国、 1967年=E.ヴィルチンスキイ/ロシア通信

 ソ連崩壊以来、アントノフ設計局は、ロシアと協力しており、2011年から2015年までは、ロシアの「統一航空機製造会社」(ロシアの主要な民間機・軍用機メーカーを統合して設立された国策企業)との合弁事業の一部をなしていた。

An-70、 航空宇宙サロン「アヴィアスヴィットXXI」にて=マリーナ・リシツェワ/タス通信

 しかし、ウクライナとロシアの関係が緊張し、輸送機An-70の生産が中止され、それをロシアの空軍に組み込む計画もとん挫した。

An-225、1989年=イーゴリ・コスチン/ロシア通信

 ロシアとの軍事協力が“急降下”した後、アントノフ社は危機に陥った。

新型のAn-132Dのプレゼンテーション、キエフ、2016年=Vostock-Photo

 その結果、多くのウクライナの専門家とエンジニアがロシアに移ったが、アントノフ社はまだ新たな可能性を模索している。同社は、ロシア製航空機部品を2017年末までに、海外の類似の製品に置き換える予定だ。

もっと読む:ソ連の宇宙往復船ブランを探して>>

ロシア文化における塩

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  ルーシ(古代ロシア)では、パンは主要な、しかも聖なる食べ物だった。こんな有名な諺がある。「パンは誰にとっても頭である」。塩はといえば、このヒエラルキーで第二位を占め、常にパンとともにあった。大切な客は、パンと塩で迎えるが、これは、ロシア人の客あしらいのよさの、世界のどこでも知られているシンボルだ。

 結婚式で新郎新婦は、カラヴァイ(自家製の円形のパン)から必ず大きな切れをちぎって食べねばならないが、それにはふんだんに塩が振りかけてある。

 「忠実な友とは、汝とともに1プード(約16キログラム)の塩を食べた者である」

 塩に関する諺は、実際たくさんある。

もっと読む:「羊に戻ろう」「山が肩から落ちた」

 「塩気のないものを食べさせられた」(意味:自分の目的を達することができなかった)

 「塩とパンがなければまともな話はできない」(意味:食卓に肝心の食べ物が出なければ、話し合いで何らかの合意に達することなどできない)

 「パンと塩を与えれば強盗も優しくなる」(意味:伝統の食は、どんな残酷な人間の心をも和らげる)

 「塩がきいたものを食べれば、暮らしも楽しくなる」(意味:食べ物の塩の量によって、気分も変わってくる)

 「それが塩だ」(意味:それが本質だ、意味だ)

 

時代とともに塩の意味合いも変わる

 古代ロシアでは、塩は、料理がもうできてから、食べるときに振りかけたが、これは完全なひとつの儀式だった。家長が自分の決まった、一番いい席に座り、自分の手で、客人たちの料理に、自分が必要だと考えるだけの量の塩を振りかけたのである。その客に対する尊敬の念が大きければ大きいほど、塩の量も多くなった。とくに尊重されない客は、末席に座らされ、皿にぜんぜん塩をもらえないこともあった。

 だから、塩が貴重な調味料だったのが分かるだろう。それというのも、製塩は、比較的最近までかなり難しい技術であって、手間もかかったからだ。

 製塩のしんどい手作業は、ロシア文学の古典的作品にも出てくる。例えば、詩人ニコライ・ネクラーソフや作家マクシム・ゴーリキーは、自分の作品でこの重労働を描いている。

もっと読む:国家と食べ物の関係小史

 ロシアで製塩が初めて言及されたのは、11世紀のこと。最初の製塩企業は、当時の最北の地であったポモリエにあった。それから何世紀も経ってから、カマ川に採塩所がつくられ、さらに後、シベリアとクリミア・ハン国がロシアに統合されてからは、これらの新たな地域にも製塩所が現れた。

 こうして北から、東から、南から、塩の隊商が国の中央部に向かった。塩は河川交通を使って送られるものもあった。19世紀の画家、イリヤ・レーピンの名高い絵画「ヴォルガの船引き」は、ヴォルガ川を塩を積んだ荷船を曳いているのだという説もある。

 ロシアでは製塩業発展のおかげで、多くの都市が生まれた。それらは、採塩所のそばにあるか、塩を積み出す港だった。その名を見ると起源が分かる都市もたくさんある――ロシア語の塩「ソーリ」を名前に含んでいるからだ。たとえば、ソリカムスク、ソリガリチ、ソリヴイチェゴツク、ウソリエ、クラスノウソリスク等々。

もっと読む:代表的なロシアパン7選

 パンは健康と力を、塩を富と権力を体現した。最も富裕な商人は、製塩業を手中にし、毛皮と貴金属の売買に匹敵する利益を得ていた。権力は太古より、塩の売買からありとあらゆる税金と賄賂を取り立てた。また、ロシアでは、この貴重な調味料の輸出は、法の外に置かれており、塩の輸出を国庫金の横領にも匹敵する罪と定める命令が出されたほどだった。

 当然、塩にかかる税金は絶えず増していった。17世紀には、貪婪な為政者のせいで、それでなくとも高価な塩は庶民には手の出ないものとなり、ロシアで一連の民衆の暴動、一揆が起きた。これを歴史家は「塩一揆」と呼んでいる。塩税が最終的に撤廃されたのは実に19世紀末のことで、その後、塩は安くなった。

 

迷信と事実

 とはいえ、塩に対する一種敏感な態度は民衆の伝統として残っている。たとえば、もし塩がこぼれた場合は、一つまみを左肩越しに後ろに投げねばならない。これは、無用な争いや不幸を避けるためだ。迷信によれば、左肩の後ろには悪魔が隠れていることがあり、それが陰謀を企んでいる。ありとあらゆる人間の不快事はこの悪魔のせいなのだ。それで、塩が悪魔の目に入ると、災難を避けることができるという。

 もう一つ、二人の友人が食べねばならないという、1プ―ド(約16キログラム)という途方もない量については、学者が、固い友情が育つまでに、実際、どれだけ塩を食べるものか、はじき出した。人間は一人平均3~5キログラムの塩を摂取するので、二人の友だちは、2~3年もあれば、16キロをクリアできるという。

もっと読む:「薬」になる食べ物>>

人工知能の監視からいかに逃れるか

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 顔認証ソフトウェアは、まぎれもない現実であり、いよいよ我々を苛立たせている。スマートカメラは、ほとんどの主要都市の通りを監視しており、ソーシャルメディアは、ユーザーの顔の膨大なデータベースを保有する。セキュリティサービスがそれらをどう利用しようとしているかは、神のみぞ知る、だ。“ビッグブラザー”の目を逃れて、多少なりともプライバシーを享受する方法はあるのだろうか?

 開発者や研究者はすでに、この課題に取り組んでいる。例えば、カーネギーメロン大学は最近、特別なデザインのメガネを発表した。これは、顔認証ソフトを欺いて、あたかも他人のように見せかけるというもの。また、「CV Dazzle」のように、ファッションをカモフラージュとして使う方法を研究するプロジェクトもある。

超簡単で効果的だったが…

 グリゴリー・バクノフさんは、ロシアの検索エンジン大手「ヤンデックス」のテクノロジー・ディストリビューション部長。彼は、この課題の解決には、手持ちの手段だけで十分との結論に達した。

 「顔認識システムは、さまざまな目的で、さまざまな人々によって使われており、カメラを避けてモスクワを移動することは不可能だ」。バクノフさんは「テレグラフ」誌(電子版)にこう書いた。

 そこで彼は、顔認証ソフトが人々を正しく識別するのを妨げるアルゴリズムを開発した。彼のサービスは、人工知能から人々の身元を隠す特別なメイクを提供するというものだ。

グリゴリー・バクノフ提供

短命に終わったわけは

 「この簡単で効果的なアルゴリズムは、非常に速く開発できた」とバクノフさんは書いている。「このサービスは、超未来的なメイクを提供する。顔に簡単なラインを数本描くだけで、スマートカメラを欺くことができる」

 ところが、プロジェクトは短命に終わった。バクノフ氏は今では、それが銀行や警察をだますことができるものだと認識しているから。

 「そこで私たちは、これを市場に出さないことを決めた。何者かがそれを悪意ある目的のために使用する可能性が高すぎる」とバクノフさんは語った。

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ソ連のミルキーなアイスは最高

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「エスキモー」アイスクリーム、モスクワ、1981年=タス通信

 外国の旅行者は、ソ連に行く理由が3つあると言っていた。それは、バレエを見る、サーカスに行く、アイスクリームを食べる。ソ連からは毎年、2000トンのアイスが輸出されていた。そんなに特別なアイスだったのだろうか。

イギリスのシンガー、エルトン・ジョンがサッカーの試合中に、アイスクリームを食べている。モスクワ、1979年=AP

 ソ連でアイスの人気が高まったのは1930年代、国が規格をつくった時。国の各地で誰もが同じブランドを食べ、国家的なデザートになった。天然成分のみが使用され、化学添加物は一切入っていなかった。ソ連時代を知る人々が、濃厚でミルキーな味を思いだすのはそのためだ。

アイスクリームの販売者。ソ連、1935年=トロンハイム市公文書館

 50グラム~100グラムのアイスは露店、キオスク、カフェなどで販売されていた。

「サイクリストの日」。シャウレイ市、リトアニア、1983年=アレクサンドル・ゼムリャニチェンコ/ロシア通信

 人々は家に戻る前にいくつも購入し、家族全員が食べられるようにしていた。独特な帽子をかぶった女性が金属製の箱を開け、客はその中から好きなアイスを選んでいた。

タガンログ・コンバイン工場の労働者がアイスクリームを食べてみた。1980年=A.ジガイロフ/ロシア通信

 カフェではさまざまな味のアイスを買うことができた。特別な金属製の皿に盛られ、削りチョコレートやナッツがまぶされたり、シロップがたっぷりかけられたりしていた。運が良いと、この3つをいっぺんに頼むことができた。

ヴィリニュス家具製造所の労働者がカフェでアイスクリームを食べている。1986年=Audrius/ロシア通信

 最も人気が高かったソ連のアイスは、モスクワのGUMのもの。クレーム・ブリュレ、チョコ、バニラなどが、コーンの中に入っている。モスクワを訪れる旅行者の多くが、ここのアイスの売店に来ることを最優先にしていた。赤の広場、クレムリン、レーニン廟、聖ワシリイ大聖堂に近いというのもあるが。レシピは今日でも秘密であり、地元住民や旅行者にとても人気がある。

アメリカ人の子供達がモスクワのGUM(総合百貨店)を訪れる。1984年=アレクサンドル・ヤコヴレフ/タス通信

 コーンの中に入ったアイスには、薄い丸紙がついていた。子どもたちはそれをなめて、ドアや窓にはったりしていた。

ポドリスクのアイスクリーム・コンビナート。1990年=セルゲイ・マモントフ/タス通信

 1950年代、「アイスの動物」がソ連のアイスを宣伝していた。お盆を持つペンギン、鼻にアイスの入った長いグラスをのせるアザラシ、氷山の上のホッキョクグマなど。

ソビエトのポスター。「GlavKhladoPromのアイスクリームを買ってください!」=報道写真

 「エスキモー」の棒付きアイスも人気だった。

エストニアのサーレマー島の水産業設備に住んでいる女の子=ユーリー・ヴェンデリン、ユーリー・ベリンスキイ/タス通信

 1940年代終わり、アイスは手づくりされていた。

ピオネール・キャンプ「アルテク」。クリミア、1980年=ウラジーミル・フェドレンコ/ロシア通信

 「ラコムカ」アイスは1970年代に発売され、瞬く間にソ連の子どもたちの人気アイスになった。これはミルクチョコでカバーされたミルクまたはチョコのアイス。28コペイカした。これは路面電車に6回乗車できる価格だった。

ブルガリアからの観光客のアニャ・カピタノワさんがアイスクリームを食べている。モスクワ、1976年=タス通信

 ソ連で最も高かったのは「プロムビル」。48コペイカだった。250グラムあるが、これは一家では物足りなかった。ソ連人は自家製ジャム(ヴァレニエ)をのせて食べるのが好きだった。

缶アイスクリーム「ドマーシヌイ(自家製)」を賞味しているリュドミラ・ラティシェワさんとオレグ・ヤコヴレフさん、モスクワ、1965年=アレクサンドル・オフチンニコフ/タス通信

 フルーツアイス(ソルベ)は最も安く、7コペイカで、紙カップに入っていた。これは子どもたちの間ではあまり人気がなかったが、コーン入りのアイスクリームを買うお金がない時に、これでがまんしていた。

フルーツアイスを食べている女の子達。1986年=ユーリー・カヴェル/ロシア通信

 ソ連のアイス生産は、ソ連崩壊とともに沈んでいった。1990年代、アイスの輸入が始まり、ソ連の規格は適用されなくなった。今、ミルキーな素晴らしい味は、思い出にすぎない。

新婚の夫婦がアイスクリームを食べている。1972年=ボリス・カヴァシキン/ロシア通信

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“ビットコインで資金洗浄”

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 不法に得た金を資金洗浄する国際的ネットワークを構築し、世界最大級のビットコイン取引所を破綻させ、7年間にわたり、ハッカーと麻薬密売組織を援助し…これらがすべて、米司法当局の見解によれば、人気のビットコイン取引所を運営するロシア人男性がやったのだという。

 ギリシャの保養地ハルキディキにある五つ星ホテル。38歳のロシア人、アレクサンドル・ビニック氏はすでに2週間、家族と休暇を過ごしていた。ところが2017年7月25日早朝、彼の部屋に警察と特殊エージェントが踏み込んだ。

 窃盗、顧客の個人データの不正使用、麻薬取引への関与、犯罪組織への関与と、米連邦捜査局(FBI)の、ビニック氏への容疑は多数にのぼる。警察当局の見解では、 ビニック氏は、40億ドル(約4400億円)を持ち出し、ビットコインを不正に使い資金洗浄したという。

 ビニック氏はブルガリアにある世界最大級のビットコイン取引所(ネット上でビットコインを取引する)「ВТС-е」の所有者と目されており、この取引所を通じて、盗まれた金を資金洗浄していたという。捜査当局によると、事の発端は2011年にさかのぼる。当時、ビニック氏は取引所を開設し、その口座に、顧客から盗まれた金が集められたとのこと。

 

ビニック氏のビットコイン取引所について分かっていること

 2016年初めの時点のロシアでは、仮想通貨は、資金の進化などではなく、“世界の悪”とみなされていた。ビットコイン取引所「ВТС-е」も、裁判所の判決で閉鎖された(つまり、ロシアでは仮想通貨は不正であり、それで取引を行うことはできないとされた)。当時、ビットコイン取引所「ВТС-е」について分かっていたことは、その二人の運営者・プログラマーの名前が、アレクサンドルとアレクセイであり、ロシア版シリコンバレー「スコルコヴォ」で働いていて、ロシアに住んでいる、ということだけだった。

 「ВТС-е」はこの頃、ロシア語を使用するユーザーにとっては、主なビットコイン取引所の一つで、その取引額では世界で10位以内に入っていた。「ВТС-е」は、閉鎖されると、すぐさま「鏡」(別のサーバ)を手に入れたため、顧客はほとんど失わなかった。

もっと読む:仮想通貨「ビットルーブル」登場か

 「ВТС-е」では一日当たり数千万ドルが取引されていた、と推測するのは、「Blockchain.Community」社の取締役で、取引所「Safello」の技術担当のアレクセイ・ブラギン氏だ。ロシアでは仮想通貨、とくにビットコインは、麻薬密売、ポルノ、武器密売などを連想させるので、仮想通貨取引所を運営していた者は事実上誰も身元を明かさなかったのだという。

 「だが時が経つにつれて、この市場も十分合法化されるにいたったが、『ВТС-е』の設立者は、“闇”にとどまった。これはよくない兆候だった」。ブラギン氏はこう考える。氏によると、この取引所の実業界での評判は良好で、大企業も利用していた。「だが、この取引所は常にグレーゾーンで活動してきた。取引を行うための許認可も取得していなかった」

 また、業界筋の話によると、この取引所はキプロスで登録され、サーバはブルガリアにあり、そのオペレーションには数行の銀行が参加し、うち一行はチェコに所在するという。

アレクサンドル・ビニック氏(左側)=ロイター通信

犯罪者がビットコインを好む理由

 世界で最も人気の仮想通貨、ビットコインは、闇市場での需要が高く、そのため、犯罪を連想させるが、ヨーロッパの数カ国や日本などでは合法だ。

 仮想通貨の魅力は、トランザクションに銀行やブローカーなどの仲介者が要らず、ある財布から別の財布へ匿名で送られることにある。ビットコイン1単位当たりの価格は現在、2600ドル(約29万円)付近で推移している。

 

ビニック氏の手口と露見した訳

 米司法省の見るところでは 、ビニック氏の犯罪歴は、彼が取引所を設立した2011年に始まる。そのとき、競合していた東京の取引会社「マウントゴックス」から、ビットコインが消えだした。「マウントゴックス」の個人および法人の顧客の財布に対し、定期的に数年間にわたりハッキングが行われた。その結果として、当時世界最大で、あらゆる仮想通貨による取引の70%近くを行っていた、「マウントゴックス」は、2014年に破たんした。

 WizSec社(ビットコイン・セキュリティの専門家集団)の調査グループが明らかにしたところでは、これらの不法行為のキーマンは、ロシア人男性、アレクサンドル・ビニック氏であった。調査グループは、トランザクションを分析した結果、盗まれた金は(他の取引所から盗まれたものも含め)、同一人物すなわちビニック氏の財布に集まったことが判明。「コインはビニック氏の財布に入れられた後、ほとんどがBTC-eに移され、おそらく、売られるか洗浄された(その際、BTC-eのマネーコードを使うケースが多かった)」」と調査グループ。

 

今後の展開は

  「この調査では、ビニック氏をハッカーあるいは泥棒としてではなく、資金洗浄を行っていた者として特定する証拠が得られた」。WizSec社はこうした見方を示し、関連データをすべて米特殊機関に渡したという。

 ビニック氏は、米国に捜査のために引き渡され、20年以下の禁固刑と約50万ドル(約5500万円)の罰金が科せられる可能性があるが、ビニック氏本人は罪を否認している。「ВТС-е」は一時閉鎖となっている。ツィッターでは、現在復旧作業が行われており、復旧まで5~10日間を要する見込みだ、と伝えている。

 Zecurion社のアレクンドル・コワリョフ社長は、仮想通貨による詐欺は今のところかなり稀だと述べる。しかし、このスキャンダルのせいで、 仮想通貨のレートはあるていど下がるだろうと、ロシアの専門家たちは見ている。

もっと読む:「ロシアのハッカーたち」とは何者か>>

トルストイ、ドストエフスキーの収入は?

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 ポータルサイト「アルザマス」は最近、ロシア作家がその代表作の原稿料で何を買うことができたか試算した。 これらロシア最初の職業作家は、少なからぬ金額を得ていたことが分かった。

プーシキン:流行の先端を行くファッションとクレムリンを望むマンション

アレクサンドル・プーシキンの肖像(ピョートル・コンチャロフスキー)=ロシア通信

 例えば、かの大詩人アレクサンドル・プーシキンは、韻文小説『エフゲニー・オネーギン』(1833)の初版で、当時の金額で12000ルーブルを得た(現在の金額に換算すると1050万ルーブル≒1900万円)。この金額で彼は、例えば、100着の流行りのシャツ、同じく流行の手袋200双、若芽で作った上等な茶200フント(1フントは約0.45キログラム)を買ったうえ、モスクワ中心部の木造の平屋の一軒家を1年間借り、さらに、二人の子供を寄宿舎学校に入れることができただろう。

 とはいえ、プーシキンには子供が4人いたから、全員には足りなかったわけだが。詩人は生涯、借金をかかえており、それは彼が決闘で死んだ後、妻に残された。その決闘も、妻が原因で起きたものであった。もっとも、その借金は全額、皇帝ニコライ1世が立て替えてやった。ちなみにプーシキンはいつも流行の先端を行く服装をしていた。

ゴンチャロフ:毛皮とアーモンドパウダー

イワン・ゴンチャロフ

 イワン・ゴンチャロフは、名作長編『オブローモフ』(1859)で、1万ルーブルを得た(現在の金額では1000万ルーブル≒1800万円)。ということはこの金額で、マホガニーのソファーを10、街を走る橇を10、ばね付き軽四輪馬車2、黒い革張りの書き物机19、アライグマの毛皮、磁器の茶碗1200、アニスの香り石けん5プード(1プード≒16キログラム)、清潔を保ち肌を柔らかにするアーモンドパウダー17瓶、大きなスイカ100、大型チョウザメ10のほか、さらに、ペテルブルクで12部屋の豪華マンションを1年間借りられた。

 とはいえ、ゴンチャロフは、自分の描いた主人公オブローモフとは異なり、ソファーに寝そべってだらだらするのは嫌いで、活動的な人間であり、大旅行者で高級官僚であり、外交ミッションの一環として世界一周旅行さえしている。金にはとくに困っていなかったから、上に列挙したのとは違うことに使っただろう。例えば、フリゲート艦「パラーダ」でまた大航海に出るとか。

 ゴンチャロフは、日露修好通商条約を結んだプチャーチン提督の秘書として随行して、『フリゲート艦パラーダ号』を著し、日露交渉の詳細を記している。

ドストエフスキー:アニスの香り石けんも!

フョードル・ドストエフスキーの肖像(ヴァシリー・ ペロフ)=国立トレチャコフ美術館

 フョードル・ドストエフスキーは、名作『白痴』で7000ルーブルをもらっている(現在の700万ルーブル≒1300万円)。ついでにいえば、ヒロイン、ナスターシャ・フィリッポヴナは、10万紙幣ルーブルを暖炉の火のなかに放り込んでいる。

 これほどの名作としては控えめな稿料だが、それで何が買えたか。リャザン県の樫の林、四人乗り馬車、タンス10、マホガニーの枠の鏡10、アニスの香り石けん10プード(1プード≒16キログラム)、樫材の樽2、アメリカのラム酒30本、イギリス製チーズ10プード、上等な山羊革の鞄、黒インキの瓶。

 ただ、ここで思い出さねばならないのは、当時、ドストエフスキーは、賭博熱が最高潮に達していたということ。もし彼が賭博をやらなかったら、これらすべては彼の手元に残ったであろうが。

 あと、外国のチーズは彼には珍しくなかったろう。しょっちゅう外国に出かけていたのだから。

トルストイ:メロンとヴォルテール式安楽椅子

レフ・トルストイ、ヤースナヤ・ポリャーナの屋敷=タス通信

 最も裕福かつ勤勉だったのはレフ・トルストイだった。『アンナ・カレーニナ』(1873~1877)で彼が手にしたのは2万ルーブル(現在の2千万ルーブル≒3600万円)。こんな金額だから、アルザマス誌は、長い買い物リストを作っている――モスクワの邸宅、箱馬車、四輪馬車、高級葉巻から、ブーツ、革製の鞄、陶磁器、メロンにいたるまで…。

 だがトルストイは、すでに禁欲的な生活をするようになっており、贅沢は好まなかった。ブーツも自分で作ったし、30脚ものヴォルテール式安楽椅子など、ヤースナヤ・ポリャーナの屋敷(現トゥーラ州)には入らなかったろう。もっとも、現在博物館になっているモスクワの屋敷は、1882年に買うことになるが。

もっと読む:ロシア作家の5つの決闘>>>

バレエ界の裏側を写した10枚

宇宙に行って病気になったら

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 宇宙が人体におよぼす影響は予測不可能。最も危険なのは放射線で、すでに死亡している22人のソ連の宇宙飛行士のうち、ガンが死因だったのは40%強。軌道上の飛行は、部分的難聴から骨粗しょう症までの、他の疾患も引き起こす。現在、人類の大部分を治療しているビフィズス菌は、当初、宇宙飛行士の消化機能を回復させるために研究者によって考案されたもの。

 宇宙では、カルシウムが骨から血液や尿に流れ出て、尿路結石症の悪化につながる可能性がある。1982年、アナトリー・ベレゾヴォイ宇宙飛行士は、宇宙を飛行していた際、腎疝痛に襲われた。「宇宙空間に飛び出したくなるほどの痛みだった」と本人は語る。ベレゾヴォイ宇宙飛行士は、宇宙遠征の中断という事態に発展しないよう、痛いことを地球に伝えず、また軌道上で211日過ごすという新たな記録を更新するため、飛行延長にまで同意した。

 現在、国際宇宙ステーション(ISS)への短期飛行には、十分な地球の薬がある。だが、たとえば、火星などの長期飛行の治療薬の問題は、解決していかねばならない。軌道上で宇宙飛行士を治療するという課題は、簡単ではない。重力のある条件下では、人は異なる動作をするし、細胞の活動まで異なる。

 ロシアの研究者は、宇宙の長期飛行用の新薬の開発に役立つ、幹細胞の生存にあたえる宇宙の影響を研究することを決め、新しいバイオリアクターを開発した。2018年5月、これと幹細胞をISSに送り、影響を調査する。

 

予測不可能な重力

 「人や動物の細胞が、重力の低下や上昇といった異なる条件にさらされた時に、どんなふうになるのかわからない」と、第一モスクワ国立医科大学先進細胞技術課の上級研究員ミハイル・クラシェニンニコフ氏は話す。

もっと読む:「地球でやり忘れたことがあると最悪」

 宇宙に送ろうとしているバイオリアクターの開発には、14年を要した。「宇宙環境で細胞を培養することに、まだ誰も成功していない。軌道上で細胞を育てる条件も完成していない」

 まず、軌道上で、ISSの乗員が常時監視をする中で、植物を用いた実験を行うという。細胞が無重力でどうなるのかが理解できてから、研究者は人体の細胞レベルで起こるプロセスの研究に着手する。

 「ISSや他の宇宙施設では、すべての植物が特殊な遠心分離機の中で維持される。そうでないと根が四方八方に延びてしまう。宇宙の条件では、植物さえも上と下を間違える。動物の体となればその混乱は計り知れない」

 

どんな薬に

 過酷な宇宙環境に人が順応する問題、そこでの治療の問題は、宇宙環境がMSC細胞(間葉系間細胞)におよぼす影響を理解できれば、完全に解決できると、研究者は考える。これらの細胞は、植物から人までのすべての生き物の組織の基礎である。

 骨組織、筋肉組織、脂肪組織を生成するだけでなく、中性幹細胞に変換可能。つまり、MSC細胞は、中枢神経系を含む身体のすべての重要なシステムの基礎なのである。

 研究者はこれを応用して、軌道ですばやく、効果的に、内臓の疾患、ウイルス感染症、ケガを治療する薬をつくろうとしている。

もっと読む:宇宙でカンパイ!

ソ連からの脱出根性

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1. 船の給仕係が中毒に

画像:アリョーナ・レプキナ

 1970年4月10日、アメリカ・ニューヨークの沿岸警備隊に、ソ連の漁船からの遭難信号が入った。  船内にいた25歳の給仕係の女性が、急性中毒になっていた。実際には、ラトビア人の給仕係ダイナ・パレナが、アメリカに亡命するために、睡眠薬を大量に摂取していた。パレナは10日間、駐米ソ連大使館員の監督のもと、アメリカ人医師による治療を受けた。そしてソ連の病院への移送が決まった時、政治亡命を求めた。「ラトビア共和国では、諜報局が市民の思想を知ろうと、人々を監視している」、デモをしたり、公式のイデオロギーに反するような自分の意見を表明したりすることもできない、と訴えた。

 

結局どうなったのか

 多くのアメリカ人はパレナの亡命の動機があまり真剣ではないと考えたが、自分の命を危険にさらしたことを考慮し、中毒になった日から18日後には亡命を認めた。その後、ニュージャージー州のスーパーに就職した。

 

2. ソ連初のハイジャック成功

画像:アリョーナ・レプキナ

 リトアニア共和国のプラナス・ブラジンスカスと15歳の息子のアリギルダスは1970年10月15日、グルジア共和国のバトゥミからアブハズ自治共和国のスフミへ向かっていた旅客機AN-24をハイジャックした。機内に銃器や手榴弾を持ち込み、離陸後、パイロットに航路を変更するよう要求するメモを客室乗務員に手渡した。メモには「クルィロフ将軍」との署名が入っていた。騒いだ客室乗務員は銃撃されて負傷。他の乗員もケガをした。副操縦士は行き先をトルコに変え、親子は現地の当局者に引き渡された。トルコ側は親子をソ連には引き渡さなかった。父は弾圧の脅威から、究極的な手段を取ったと話した。

 

結局どうなったのか

 西側の政治家が親子の求めを重視したため、父は懲役8年、息子は懲役2年の判決を受けるだけで済んだ。数年後には恩赦が認められ、1976年にアメリカ・カリフォルニア州に移住した。移住後はフランク・ホワイトとアルバート・ホワイトに改名した。息子は新しい生活に順応できたが、父は偏執症になり、2002年2月、77歳になった父は息子にダンベルで強打され、死亡した。息子によれば、自分が父にKGBだと思われて銃撃されそうになったため、正当防衛で殺害したという。息子は懲役16年を宣告された。

 

3. 12月に海に三日三晩

画像:アリョーナ・レプキナ

 海洋学者スタニスラフ・クリロフは、海外遠征への参加を強く望んでいた(ジャック・イヴ・クストーの承諾も受けていた)。だが許可されなかった。クリロフは失望し、ソ連の大型船に乗り、亡命する計画を立てた。大型定期船は外国の港には寄港せず、航路は乗員以外、知らされていなかった。そのため、海図の座標を見つけようと、船長室にあがった。

 1974年12月13日深夜、ひどい雷雨であった。船の形状が特殊だったことから、船外へ簡単に飛び降りることができず、スクリュープロペラに巻き込まれるリスクを冒して船尾から飛び降りねばならなかった。船から飛び降りた後、海で三日三晩、寝ず、食べ物を食べず、飲み物を飲まずに過ごした。優れた体型と10年続けたヨガ(「地下出版(サミズダト)」によれば学生時代から始めていた)のおかげで、海中で耐えることができた。約100キロ泳ぎ、目標のフィリピンのシアルガオ島に到着することができた。

 

結局どうなったのか

 クリロフは現地の亡命者用監獄で半年過ごし、その後親族のいるカナダへ出国した。自分の夢を実現し、科学遠征で北極からハワイまでのさまざまな場所へ行った。1998年1月、ガリラヤ湖で潜水中、ネットに絡まって死亡した。

 

4. 「赤いビキニの少女」

画像:アリョーナ・レプキナ

 18歳のリリアナ・ガシンスカヤは、オーストラリアへ向かう大型船「レオニード・ソビノフ」で働いていた。1979年1月14日、乗客が夜のパーティーをしていた時、窓から海中に飛び込んだ。着用していたのは赤いビキニのみで、40分かけてオーストラリアの海岸まで泳いだ。ソ連の特殊機関はすぐにガシンスカヤを探し始めたが、「デイリー・ミラー」紙の記者はガシンスカヤをかくまい、インタビューと写真撮影を頼んだ(デイリー・ミラーによれば、追っ手をかく乱させるために、最初に偽のインタビューを企画しなければいけなかったという)。ガシンスカヤは、雑誌でオーストラリアの美しい風景を見て、行くことを決めたのだと話した。オーストラリアが政治亡命を許可したことから、大騒動に発展した。苦労してきたベトナム難民の多くが、亡命を許可されていなかったためである。亡命を許可された理由は「赤いビキニの少女」の美しさだと批判された。

 

結局どうなったのか

 ガシンスカヤは写真家グラハム・フレッチャーと結婚した。男性向け月刊誌「ペントハウス」の撮影で1万5000ドル(約165万円)を手にし、ゴーゴー・ダンサーになり、テレビ・ドラマに出演した。1984年にオーストラリアの富豪イアン・ヘイソンと結婚し、化粧品事業を始めたが、数年後に離婚した。そしてイギリスに移住した。その後のことはわかっていない。

もっと読む:ソ連中尉の日本亡命でMiGに恩恵>>

スイカとロシア人

クイズ:海洋画家アイヴァゾフスキーの絵を写真と区別できる?

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「犬の頭をぶら下げた人々」

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 イワン雷帝(4世、1530~1584年)の親衛隊「オプリーチニキ」は、ロシア中世の一つのシンボルだ。大量の処刑、ツァーリの「敵」の迫害、財産没収…。この親衛隊の権限は途方もないものだった。この中世の黒衣に身を包んだ「特務機関」はどうやって生まれ、何をやっていたのか?

 ツァーリのためとあらば水火をも辞せずという、仮借ない、残虐なこの連中は、国中を恐怖のどん底に陥れた。彼らの言葉は、裁判と警察よりも重かった。彼らの馬の首には、犬の生首がぶら下げられており、その服は、教会の黒衣を思わせた。身分の上下を問わず、誰にとっても、彼らが家の閾に現れたときほどの恐怖は、この世にはなかった。

イワン雷帝時代におけるボヤールの処刑。V.V.ヴラジミロフ(1880‐1931)、水彩画、リャザン国立ポジャロスチン美術館=Legion Media

 一説によれば、自分の息子を殴り殺したという、矛盾に満ちたツァーリ、イワン雷帝に関する議論は、今日にいたるまで続いている。しかし、ロシア史上最悪の暗黒時代の一つが、彼自身と結びついていることは疑いない。

 雷帝は、新たな階層を創った。それは、彼個人にのみ忠誠を誓う親衛隊にして秘密警察、「オプリーチニキ」だ。ツァーリに不都合な人間は片端から、彼らの手で始末された。

国家の中の国家

 1564年、イワン雷帝は、最も親しかった大貴族の裏切りにあった。軍司令アンドレイ・クルプスキーだ(*彼は敵国リトアニアに亡命した――編集部注)。これを受けて雷帝は、前代未聞の挙に出た。リトアニアとの戦争の最中に首都を去ったのだ。すなわち、祈祷の後で誰にも告げずに、家族と財産、国庫金とともに(そのなかには最も崇敬されるイコンも含まれていた)、クレムリンを後にしたのである。そして彼は、モスクワから123キロの地点にあるアレクサンドロフの、守りを固めた宮殿に入った。

P.チャイコフスキーによるオペラ「オプリーチニク」のための舞台デザイン。A.M.ヴァスネツォフ (1856-1933) による劇場風景画、1911年、バフルーシン記念演劇博物館/モスクワ。=Legion Media

 この歴史の分水嶺となる事件に先立って雷帝は、国の支配層全体と反目していた。実際、彼には、自身の権力と生命を危ぶむだけの根拠があったのだが、これ見よがしの首都退去は、はるかに長期にわたり、負の爪痕を歴史に残すことになった。

 雷帝がいなくなると、首都ではパニックが始まった。「異教徒の敵どもが攻めてくるぞ、ツァーリはおられない、我々はおしまいだ!」。モスクワではこんな話ばかり出ていた。結局、ツァーリのもとに請願者が列をなしてやって来て、モスクワに戻り、猖獗を極める専横、不法行為を止めてくれ、と懇願するのだった。

 1か月後、イワン雷帝は、退去したときと同じく華々しくクレムリンに入り、最後通牒を突き付けた。すなわち、自分は統治を続けるが、今日より、国家は二つに分かれる、と。その一つは、ツァーリの直轄領(オプリーチニナ)と、それを守るために、彼自らによって選抜された親衛隊。もう一つは、残りのすべての部分「ゼムシチナ」。つまり、大貴族の管理地区であり、彼らは勝手に生きていくがよいが、ただし内政に口を挟むのは例外的な場合に限られる、というのだ。

もっと読む:失われたイワン雷帝の蔵書を探して>>>

犬の生首をぶら下げた新階層

 さて、その親衛隊であるが、イワン雷帝は、隊員を実質的に下層階級から選抜した。選ばれるための主な条件は、主だった大貴族や公の家系と、何らの係累ももたないこと。オプリーチニキたるものは、ツァーリに完全服従する「誓約」をし、その後は「規約」に従って生きていくこととなった。誓約でオプリーチニキは、「ゼムシチナとは飲食を共にせず、友誼を結ばぬ」 ことを誓った。もし両者が共にいるのが見つかった場合は、いずれも処刑された。

イワン雷帝の裁判によるオプリーチニナ。N.V.ネヴレフ (1830-1904)、油、キルギス国立造形芸術美術館/ビシュケク市=Legion Media

 オプリーチニキは、首都の特定の地区で生活した。モスクワ都心のいくつかの街区(現在のスタールイ・アルバート、ニキーツカヤ通りの辺り)で、そこから雷帝は、元の住民たちを着の身着のままで追い出した。元住民には、財産を持ち出す権利はなかった。彼らは単に「妻子とともに路頭に追い出されたので、しばしば徒歩で、施しで露命を繋ぎつつ、別の場所に移らねばならなかった」。

 こうしていくつもの街区から住民を追い払った雷帝は、ここに新宮殿を建設し、高い城壁で囲うように命じた。

 こうして発足したツァーリ個人の親衛隊、オプリーチニキは、当初は1000人を数ええるのみだったが、後に6000人にまで膨れ上がった。その不吉なトレードマークが、犬の生首と、やはり馬に結わえ付けられた箒であり、これは彼らのシンボルだった。すなわち、ツァーリに忠誠を誓い、ロシアの「敵」は、この犬同様に切り刻み、国から「掃き出す」というわけだ。

もっと読む:イワン雷帝をめぐる7つの事実>>>

ツァーリの意志で処刑 

 オプリーチニキの政治的意味は、国の言論を統一し、それを支配することにあった。したがって、「ツァーリに対する罪」が、処断、処刑の現実の根拠として現れてくるのはこの頃である(法文化されるのはようやく1649年のこと)

 オプリーチニキらは、「ノヴゴロド年代記」の証するところでは、この古都で大量の処刑を行い、「ゼムシチナ」を略奪し、街を荒廃させた。事の起こりは、1570年にツァーリに対し陰謀を企んでいるとして、ノヴゴロドの支配層全体が告発されたことだった。

 「この密告は明らかに馬鹿げたもので、矛盾だらけだった」と、歴史家ウラジーミル・コブリンは考えるが、にもかかわらず、支配層とともに数百の住民が処刑された。住民たちは、可燃性の液体混合物を塗りたくられて火をつけられ、まだ生きているうちに川に放り込まれた。まだ死に切らない者は、オプリーチニキが船から撲って止めを刺した。

 イワン雷帝の「法典」で、死刑は、最もありふれた刑罰の一つになった(例えば、初犯でも何かを盗んだとか、強盗を働いたとか、密告されたとか)。だが、しばしばオプリーチニキの一言だけで死刑になることもあった。処刑後、「裏切者」の全財産は、オプリーチニキの管理に移り、裏切者を見つけた者は、気前よく褒賞を与えられることが多かった。

ボーアル・モロゾフを訪問するイワン雷帝とオプリーチニキ・マリュータ・スクラートフ。K.V.レベデフ(1852-1916)=Legion Media

 「ツァーリの意志は法であるが謎でもある」。ウラジーミル・ソローキンの中編小説『親衛隊士の日』の主人公はこう言う(この作品は、松下隆志氏による邦訳がある)。この小説は、雷帝お気に入りのオプリーチニキ、マリュータ・スクラートフを描いたものだ。

 「ツァーリのご意志」による処刑が、実際のところ、その罪を証するに足るどれだけ根拠があるのかについては、誰一人考えなかったが、これも驚くに当たらない。いくつかの告発は単にでっち上げられたものだったが。

 結局のところ、オプリーチニキとその部隊は、現実の外敵に対しては、なすところを知らぬ、完全な無能さをさらけ出すにいたった。ノヴゴロドの殲滅から1年後、1571年にモスクワに、クリミア・ハーンが来襲。だが、ツァーリを守るために集まったオプリーチニキは、わずか一連隊にすぎなかった。この体たらくを受けて、雷帝は、オプリーチニキを廃止し、その“エリート”たちは、容易に予想がつくことだが、処刑した。

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オスタンキノ・タワーに屋外展望台がお目見え

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 実に久々に、オスタンキノ・タワーから、ガラス越しにではなく直接、モスクワの景観を楽しむことができるようになった。この540メートルのテレビ塔に、屋外展望台がお目見えしたのだ。それは、地上85メートルの高さにある本来職員用のバルコニーに設置された。ガラスで隔てられた室内展望台のほうは、従来通り、337メートルのところにある。新展望台には以前は、気象学者だけを通していたが、今や、このバルコニーは、テレビ塔の新観光コースの一部になっているわけだ。

 

展望台のチケットの買い方

 テレビ塔「オスタンキノ・タワー」は、ほとんど特別な警護の対象となっており、ここに入るためには、前もって個人の入行証をもらい、あらゆる刃物あるいはそれに類するものや可燃物を、ガードマンのロッカーに預ける必要がある。だから、予め電話 8 (495) 926 61 11か、公式サイト。予約しなければならない。さらに、旅行者の入場制限もあるので、少なくとも1日前に、日時を決め、予約することが望ましい。

 電子チケットは、サイトを通じて簡単に買える。そのための手順の「7段階」は、約1分で通過できる。

 今のところ、観光ルートは二つしかない。その一つは、高さ337メートルの室内展望台を訪れるもので、高速エレベーターがわずか42秒で連れて行ってくれる。扉が開くと、すぐガラス張りの床に出る。二つ目のルートには、さっき述べた新屋外展望台も含まれている。    

 ルートを決めたら今度は、チケットのタイプを選ぶ。大人は1000ルーブル(約1800円)、子供/学生は500ルーブル(約900円)だ。価格は時間帯によって変わり、朝10~11時なら、大人は600ルーブル(約1100円)、子供/学生は300ルーブル(約550円)。

 一方、二つ目のルート――二つの展望台を訪れる――は、1500ルーブル均一(約2700円)である。

 それから今度は、訪れる時間を決める。一番早い時間は朝10時で、一番遅いのは夜10時。

 最後に、氏名、生年月日(パスポートの表記と必ず一致していなければならない)、連絡先を記入。これでぜんぶだ!

 これであなたは電子チケットを手に入れた。支払いは現地で行う。ただし、チケットには、無料での音声ガイドその他のサービスは含まれていないので注意されたい。

 おっと、最後にもう一つ。二つのルートのいずれにも、「非常事態発生に際しての避難が困難であることを見越して」、次のカテゴリーに該当する人は入ることができない。①7歳以下の幼児、②「妊娠による影響が大きい」女性、③酔っている人、④義肢、車椅子、松葉杖を使用している人。

 

オスタンキノ・タワーへのアクセス

 OK!あなたは無事電子チケットを手に入れたとしよう。今度は、オスタンキノ・タワーそのものを見つけなければならない。見た目は近そうだが(ちょっと見にはそう見える地図も多い)、このタワーは、地下鉄駅の隣にあるわけではないし、そこに至る道はあちこちで枝分かれしている。それというのも、タワーは、巨大な「オスタンキノ公園」に囲まれており、この公園は普通の森と区別がつきにくい。しかも、大通りがあちこちで交差しており、建物はどれも似たり寄ったりの高層ビル、マンションだ。とにかく、地下鉄のヴェデンハー駅からは、徒歩で25分かかる。

 だから、地下鉄駅から地上の公共交通機関を使って、5~7分で着くほうが簡単だ。36番と73番のトロリーバスで「科学アカデミー会員コロリョフ通り」まで行くか、あるいはモノレールで「テレツェントル」まで行くか。

 降りる駅を間違えるのはかえって難しいくらいだ。なにしろ、オスタンキノ・タワーは、あなたが地下鉄を出たときから目の前に聳え立っているのだから。いざという場合は、たたそれに向かって歩いていけばいい。

オスタンキノ・タワー上空の稲妻=デニス・ムリン/ ロシア通信撮影

 

ほかにオスタンキノ・タワーでできること

 一風変わった仕方で食事をすることができる――つまり、回転するレストランでということだ。このレストランは、高さ328~334メートルの3階を占めており、タワーの中心を軸に、40分間で1~2回転する。

 お値段は、地上への近さに比例して安くなる。より低い階では、一人当たり平均500ルーブル(約900円)ほどで、ちょっとした食事ができる。レストラン・クラスは、もっと高い階で、一人当たり平均1500ルーブル(約2700円)。

 ついでがあったら、オスタンキノの小さな博物館をのぞいてみてほしい。テレビ放送と関係のある面白い展示物がいくつかある。昔の押しボタン式電話とかタワーの修理用の吊り足場とか。

モスクワ市街を一望:オスタンキノ・タワー

 もう一つ、オスタンキノでは、ロシアのテレビ局がやっているトークショーの大部分がここで撮影されている。そのため、スタジオの観客が毎時間ごとに右往左往している。もし、あなたが撮影現場に1~2時間付き合ってくたくたになり、番組制作の苦労を味わってみてもいいかな、なんて思ったら、観客になるように登録してはいかが。おまけに、あなたは出演料ももらえる。問題はただ、それが基本的にぜんぶロシア語で行われることだが。

ロシアへの無料電子ビザの申請方法

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 8月1日よりロシア外務省は、ロシアにウラジオストクから入国するための無料電子ビザの発給を試験的に開始した。もし、あなたが沿海地方の旅をご希望ならば、チャンス到来だ。時あたかも、沿海地方の晩夏は、海は陽光で温まっているし、初秋は、楓の紅葉の“仮面舞踏会”の頃合い。

電子ビザ申請は早くも8月8日から可能になる。 

 沿海地方への電子ビザ受領の条件は以下の通り。

渡航目的:観光、ビジネス、スポーツ、文化、学術交流。 沿海地方への滞在期間は、最長で8日間。 入国地点は、ウラジオストク港と同市のクネヴィチ空港。出国もウラジオストクから。

ロシアバレエと日本舞踊の共演

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 バレエ劇「信長-NOBUNAGA-」(ファルフ・ルジマトフ、岩田守弘、藤間蘭黄)

 

会場:東京国際フォーラム ホールC

*詳細はこちらで。

ストロベリー・ピキングのチャレンジ

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