Quantcast
Channel: ロシアNOW
Viewing all 2079 articles
Browse latest View live

ニコラ・レニヴェツ村のオブジェ5選

$
0
0

 30以上のランド・アート・オブジェの多くは、植物と融合している。2006年に第1回「アルフストヤニエ」祭が開催されて以来、オブジェの多くは夏の暑さ、雨、雪に耐えたが、一部の木製は自然に戻りつつある。

 980平方㌔の敷地に点在するオブジェのうち5点をロシアNOWが選び、旅行に役立つ情報とともに紹介する。

1.     宇宙の知性

タス通信/セルゲイ・ボビリョフ撮影

 ニコラ・レニヴェツ村に日帰りで行くとしても、宇宙の知性(2012)の見学は必須。ニコライ・ポリスキーの傑作。大地にスチームパンクの木製のロケットが対称的に配置され、その中央には曲がった鉄と木でできた巨大な脳あるいは宇宙船がある。とても興味深い芸術だ。

2.     ボーブール

タス通信/セルゲイ・ボビリョフ撮影

 惑星間のタコのようなボーブール(2013)は、白樺の小枝で編まれたオブジェで、高さは7階建てのビルほどある。ボーブールの内部に入ると、小枝の間から光が差し、円柱が動いているように見える。

 ボーブールとは、パリのポンピドゥー・センターのある古い地区。作者ニコライ・ポリスキーによれば、パリに18ヶ月滞在した際に、このオブジェのことが頭に浮かんだのだという。

3.     ウグラの灯台

Legion-Media

 ウグラ川の河畔にあるこの灯台(2004)にはサーチライトはないが、訪問者をひきつける。作者はニコライ・ポリスキー。高さは12メートルあり、内部をのぼることもできる。上からは周囲の景色やオブジェのニレの枝の構造を見ることができる。

4.     ロタンダ

タス通信/セルゲイ・ボビリョフ撮影

 ひまわり畑の真ん中にポツリと立つロタンダ(2009)は、とても目立つ。作者はアレクサンドル・ブロツキー。普通の小さな白い家のように見えるが、1階には古い扉が並び、開いたり閉じたりしている。おもしろくて素敵な建物だが、この扉によってお化け屋敷の中を歩いているような気がするかもしれない。夜になると、スリルは増す。階段をのぼって屋上に行き、景色を楽しむこともできる。

5.     金張りの子牛

ロシア通信/イリヤ・ピタエフ撮影

 船か、寺院か、それとも牛か。金張りの子牛(2009)は、この3つのようだ。作者ヴァシリー・シチェチニンは、聖書のノアの箱舟からインスピレーションを受けた。一方で、ウォール街のチャージング・ブルも参考にしている。何にせよ、一番上まであがると森や草原のパノラマを楽しめるし、地上からは見えない小さな秘密も見つけることができる。

行きかた

タス通信/セルゲイ・ボビリョフ撮影

 自動車で行くのが一番わかりやすい。所要時間は3時間半~5時間。

 ニコラ・レニヴェツ村にはそれほどたくさん駐車場があるわけではないが、警備員のいる主な駐車場はニコラ・レニヴェツ芸術公園入口近くにある。公園の入場券(200ルーブル)を購入する場合、または宿泊の予約をしている場合は、駐車料金は無料。

 公共交通機関を使って行くこともできるが、疲れてしまうかもしれない。一番早い方法は、鉄道キエフ駅からマロヤロスラヴェツ駅またはカルーガ1駅まで行き、タクシーに乗ること(片道1600ルーブル、現金払いのみ)。

開館時間

 ニコラ・レニヴェツ芸術公園は年中無休で24時間開いている。入園料は200ルーブル(約370円)。「アルフストヤニエ」祭開催中は、祭の入場券が個別に販売され、早々に売り切れるため、事前確認が必要。

宿泊

 ニコラ・レニヴェツでの宿泊は癒される。とても静かで、夜になると何百万本ものロウソクが灯されているように、たくさんの星が輝く。オンライン予約は簡単で、英語でも可能。週末、特に暖かい季節に行く場合、人が多いため、事前予約をしておくことが大切。テントを持って行ったり、テントを借りたりすることもできる。

 ニコラ・レニヴェツ村から車で約90分のカルーガ市(カルーガ州の行政中心地)で宿泊することもできる。市内にはたくさんのホテル、バー、レストラン、カフェがある。屋外で楽しく長い時間を過ごした後、快適に眠りたい人、お湯、お風呂、電気などを確実に使いたい人は、カルーガ市に行った方が良い。

自転車レンタル

 1日以上滞在するなら、歩きながらすべてを見ることができる。だが時間があまりないのなら、自転車を持って行く、または公園で自転車をレンタルした方が良い。

食事

 行楽弁当、またはシャシリク(バーベキュー)のセットを持って行くと最高。重い物を持ちたくない人は、夏の間、池のほとりにあるウグラ・カフェやフェルマ・サラダ・バーで食事をすることもできる。どちらも地元でとれた食材を使っているため、とても新鮮。ただ、バラエティーはそれほど豊富ではなく、価格もモスクワとそう変わらない。祭の開催期間中は特に価格が上がる。

持参するもの

 自分の食べ物やシャシリク(バーベキュー)のセット。自分の自転車やテント。レンタルもあるが、夏場は利用者が多いため、持参する方が確実である。

 虫よけスプレー、飲料水、日焼け止めもあった方が良い。夏の天気は予測が難しいため、代えの靴、傘、暖かい服なども持って行った方が良い。

その他

 観光ルートのマップは入口で100ルーブル(約185円)で販売されている。

 また、ボランティアもいる。詳細は公園のウェブサイトで確認可能。


プーシキンの発想の源のリンゴ

$
0
0

 詩人アレクサンドル・プーシキンは、当時19世紀の貴族とは異なり、それほど食事制限にこだわっていなかった。伝統的なロシア料理の中でも質素なものを好み、乳母でプーシキンの人生と仕事で重要な役割を果たしていたアリーナ・ロジオノヴナのつくるクッキーが大好きだった。プーシキン家の農奴だったアリーナ・ロジオノヴナは、プーシキンの中に民俗文化と民間伝承への愛を育てていった。

もっと読む:ロシアン・オーブン:シャルロットカ林檎ケーキ>>>

 プーシキンは豪華な外国料理よりも、アリーナ・ロジオノヴナの家庭的な素朴な料理を評価していた。プーシキンの親友のピョートル・ヴャゼムスキーはこう言っていた。「プーシキンはあまりグルメではない。料理芸術を評価していなかったし、その謎を解明することもできなかったと思う。ただ、特定の料理をたくさん食べていた」

 とはいえ、伝統的なロシア料理はさっそうたる姿を維持するのに理想的ではなかったため、プーシキンは、一日のほとんどで断食していたイギリスの詩人ジョージ・ゴードン・バイロンのように、塩漬けの果物や野菜を夕食のメインにしていた。トリゴルスコエを客人として訪問する時は、深夜でも塩漬けリンゴを出すよう頼んでいた。この変わった習慣について、ヴャゼムスキーはこう言っていた。「塩漬けリンゴで恍惚の状態になっていた」

もっと読む:ロシア料理の“里帰り”>>>

 リンゴを塩漬けにすることで、すべての栄養が守られ、辛味が加わる。ビタミンCが豊富なため、自然の感染予防にもなる。また、カルシウムも豊富で、骨、爪、歯が強くなる。

 かたくて傷のないリンゴが塩漬けに適している。晩秋や冬の品種も使えるが、ロシアではアントノフカが好まれている。大きな陶磁器やガラス瓶を塩漬けに使うことが必要。

材料

・リンゴ 20キロ

・桜の葉

・クロスグリの葉 ひと握り

・ミントの葉 ひとつまみ

・水 10リットル

・塩 150グラム

・はちみつ 250~300グラム(普通の砂糖は使わない)

・麦芽 100グラム(ライ麦粉150グラムで代用可能)

つくりかた

1. 材料を層で入れていく。

クロスグリの葉を洗って、容器の底に薄い層にして敷く。たくさん入れるとリンゴが酸っぱくなりすぎてしまうため、注意。  その上に、洗ったリンゴをぴったりとくっつけながら、2層置く。 桜の葉を洗って、リンゴの上に薄い層にして敷く。 その上に再び、洗ったリンゴをぴったりとくっつけながら、2層置く。 ミントの葉を洗って、リンゴの上に薄い層にして敷く。 ミントの葉の上に、洗ったリンゴをぴったりとくっつけながら、2層置く。 最後に、残りの葉をリンゴの上に敷く。

2.次に重し。きれいな布をかけて、布の上に平な何かを置く(板でもなんでも良いが、直径は容器の口よりも小さく、すき間のできるもの)。伝統的に、特別な木製の板がある。上に重しを置く。

3.次に漬け汁をつくる。水を沸騰させ、しばらく冷まして温水状態になったら、塩、はちみつ、麦芽を加えてかき混ぜる。

4.さらにしっかりと冷まして、またかき混ぜる。

5.これをリンゴの入った容器に注ぐ(重しはそのままに)。容器を15~18度の涼しい場所に置く。

水分が少なくなっても大丈夫。

重要なポイントは、発酵期間で重しを外さないこと。外すとリンゴがすぐに悪くなってしまうため。

最初の発酵期間は6~7日。

6.この後の塩漬け期間は、容器を冷蔵庫や貯蔵庫などの4~5度の冷所に置く。通常は塩漬け完了までに4~6週間かかるが、プーシキンの大好きだった発酵直後の味を試してみるのも良いかもしれない。

欧米の食品の禁輸から3年

$
0
0

物価高

 禁輸によって、食料品の価格が上昇し、インフレが進んだ。インフレの主な理由は、2014年12月のルーブル安である。だが国産品の価格も上昇した。これはイギリスBBCロシア支局が試算したもの。モスクワの標準的な買い物客の商品カゴの価格は、2014年8月の価格と比較すると69%高くなっているという。ロシア連邦経済発展省によると、平均価格の上昇率は2014年8月と比較して32%とのことだが。

ウラジーミル・アスタプコーヴィチ/ロシア通信

 「禁輸措置の悪影響はロシア経済における売上高の減少。所得の大部分が食料品に費やされるため、他の種類の商品やサービスへの支出は大幅に減少した」と、ロシアのコンサルティング会社「キリコフ・グループ」の業務執行社員ダニイル・キリコフ氏は話す。

 

限られた選択肢

 禁輸措置は予想通り、国内市場の製品の選択肢を狭めた。ヨーロッパ産の果物と野菜は、トルコ、エジプト、モロッコ、中東諸国の製品に代わった。パルメザン、ハモン、かびチーズなどの高品質のヨーロッパ食品は、ロシア産やベラルーシ産の類似食品に代わった。質の問題はまだ机上にある(改善の余地がある)。

 

ショッピングセンター「ネグリンナヤ・プラザ」のショーウインドーにチーズがが飾られている。モスクワ、2015年=Getty Images

 「現時点で、禁輸措置はロシア産品の人気上昇に寄与したと言えるが、国民の所得の減少はこのプロセスを遅らせている」と、ロシアのFX会社「Aマーケッツ」のアナリスト、アルチョム・デエフ氏は話す。

 

小規模農業の復興

 ロシア政府は禁輸措置を国内生産者の保護措置として活用した。農業を始める人のための最大25万ドル(約2750万円)の政府低額融資プログラムを2012年に始めていたことから、小規模農家は増加した。ロシア連邦農業省と協力して融資を行っているロシア農業銀行によれば、2016年、中小規模の農業体に9200件、総額1915億ルーブル(約3490億円)の融資が行われた。これは2015年の1837億ルーブル(約3348億円)を超えている。

「クラドヴァヤ・ソーヌツァ」農場、クラスノダール地方=ヴィターリイ・ティムキヴ/タス通信

 「これから農業生産者はローンを返済し、現在の市場の占有率を失うリスクを冒すことなく利益を上げ、増産していかなくてはいけない。だが禁輸措置の期間は価格政策、財務データ、経済情勢にもとづいて限定されなければならない」と、ロシアのFX会社「テレトレード」のチーフアナリスト、ピョートル・プシカリョフ氏は話す。

 

温室栽培事業の拡大

 禁輸措置と政府農業補助金プログラムにより、温室栽培事業への投資がロシアの実業家、農業企業、政治エリートの間で人気になっている。

トマト温室=ドナート・ソローキン/タス通信

 大富豪ロマン・アブラモヴィチ氏(フォーブス誌のロシア人番付では資産76億ドル≒8360億円で第13位)の息子アルカディ・アブラモヴィチ氏は、ウクライナとの国境に近いベルゴロド州でトマトとキュウリを栽培することを決めた。2015年末、野菜栽培に特化した「グリーンハウス」という会社を立ち上げた。ユーリー・チャイカ・ロシア連邦検事総長の末男イーゴリ・チャイカ氏も、農業分野への投資を決めた。2016年3月に野菜栽培に特化した「アグロ・レギオン」社を創業した。

 連邦農業省によれば、ロシアの温室で栽培されたトマトとキュウリの今年7月の収穫量は、昨年の同じ月と比べて19.8%増加した。トマトは570トン収穫された。

もっと読む:トランプ大統領は対露制裁をどうする>>

演劇ユニットG.com vol.15『雨季』

$
0
0

 A&B・ストルガツキイのSF小説『みにくい白鳥』を舞台化。 

 原作:A&B・ストルガツキイ(『みにくい白鳥』群像社刊)より  

 作/演出:三浦剛

出演:

園田シンジ

佐藤晃子(演劇ユニットG.com)

菊池豪(Peachboys)

古口圭介(演劇組織 夜の樹)

辻井彰太

根本こずえ(演劇ユニットG.com)

宮田賢一

和田周(演劇組織 夜の樹)

 

 公演スケジュール:2017年8月16日(水)~8月20日(日)

 会場:花まる学習会 王子小劇場(東京都北区王子1-14-4 地下1F)

 

*詳細はこちらで。

もっと読む:ボリス・ストルガツキー追悼>>

ソ連のSFみたいな変なプロジェクト

$
0
0

 ソ連の科学者は革新的なアイデアに困ることはなかったが、実践に移すとなると、問題はまったく別物であった。冷戦が激化するにつれて、敵国アメリカより優位に立つために、多くの潜在的なプロジェクトが進められていった。

 今日も残っているソ連の科学・軍事プロジェクトもある。レーザー兵器や音響兵器などの野心的なアイデアは、現実になりつつある。  

 良いか悪いかは別として、驚きのプロジェクトの一部は中断され、忘れ去られた。ソ連の科学者が熾烈な冷戦の競争下にあったことを証明する過激な案を、ロシアNOWが選んだ。

 

脳ラジオ

ベルナルド・カジンスキー=アーカイブ写真

 1923年、電気技師ベルナルド・カジンスキーは、脳のインパルスを伝達し、長距離信号に変換する「脳ラジオ」のコンセプトを考案した。人間は信号を送受信できる歩くラジオ局だという考え方を示し、このテーマで公演を行うために欧米を訪問した。このプロジェクトはその後、ソ連当局からの支援を受けた。

 1924年、モスクワで最初の試験が行われた。低周波の電波を使いながら、本の山から犬に特定の本を拾い上げさせ、それを隣の部屋にいる科学者に持って行くというもの。実験は成功したが、動物は訓練の命令に従うことを拒否するようになった。

 諜報機関はこのプロジェクトに気づき、ラジオを使って人の思考に影響を及ぼすということに関心を示した。カジンスキーは、プロジェクトに自信があったものの、作業を中断した。その後、他の科学者が取り組んだものの、本格的な研究にはいたらなかった。コンセプトはその後、コストと進捗のないことを理由に、アーカイブ行きとなった。

 

「戦闘モグラ」

「戦闘モグラ」=アーカイブ写真

 地中の土壌と岩石を掘削できる機械を建造するという案は、SF作家だけでなく、ソビエトの科学者たちも夢見ていた。このような機械があれば、敵の地下施設やインフラストラクチャを破壊したり、敵陣を突破したりできる。

 このようなコンセプトを初めてモスクワで提唱したのは、技師ピョートル・ラスカゾフ。20世紀初めであった。だがラスカゾフが1904年に殺害されたため、プロジェクトは1930年代まで中断していた。

もっと読む:首都の幽霊とソ連の謎の地下鉄

 複数の説によれば、ソ連の技師ルドリフ・トレベレフスキーが、いわゆる地底戦車のドイツの設計の一部を入手し、その後当局の支援を受けて、最初の地中掘削機の試作品を建造したようである。地底戦車は、地下の掘削、ケーブルの敷設、地質探査用に設計された。だがソ連の当局が他のプロジェクトに焦点を当てることに決めたため、このプロジェクトは何年も放置された。

 1960年代、ソ連の最高指導者ニキータ・フルシチョフの支援を受けて、このプロジェクトが再開された。これは原子力プロジェクトよりも秘密裏に行われていた。  地底戦車の特別工場は、クリミアに建設された。

 科学者は、多くの優れた能力を備えた改善版を考案した。長さ35メートルの地底戦車「戦闘モグラ」は原子力で動いた。最高速度は時速7キロで、乗員5人、兵士15人が乗れた。

 ウラルで1964年に最初の試験が行われ、大成功した。ナイフでバターを切るように、山を切り、仮想の敵のえんたい壕を破壊した。だが2回目の試験はそれほどうまくはいかなかった。戦闘モグラは爆発し、乗員全員が死亡した。事故原因は秘密のままだが、以降の試験は行われず、レオニード・ブレジネフ政権が発足すると、プロジェクトは完全に放棄された。ブレジネフは宇宙開発を重視した。

 

気候兵器

アレクセイイ・ブシキン/ロシア通信

 1960年代、多くの国が気候や気象条件に影響を与える方法を考えていた。ソ連は、天候をコントロールできれば、敵に対してはるかに優勢になると考え、研究を行った。アメリカも同様のアイデアに取り組んでいたことが明らかになっている。

 1977年、国連は気候変動兵器の使用を禁止する条約を正式に採択したが、アメリカとソ連は可能性を研究し続け、電離圏(太陽放射および宇宙放射でイオン化される地球大気の層)のプロセスに影響を与えるとされる気象学的複合体を構築した。

 電離圏を研究する実験所、SURA電離圏加熱施設が、1980年代にソ連で設立された。これはアメリカのHAARP(高周波活性オーロラ調査プログラム)のような施設である。当時、近隣の住民は、上空で奇妙な光や赤い球を目撃していた。これらは気象学的複合体の活動で生成されたプラズマ形成物だと考えられた。だが多くの科学者は、気候変動兵器に関するすべての話にはまったく根拠がないと考えている。

もっと読む:ウラルの雪山で起きた謎の遭難事件

ロシアの車道でのサバイバルガイド

$
0
0

大都市では、「速度制限+20」というルールが最も一般的だ。=アルチョーム・ジテネフ/ロシア通信

ルール1:速度制限の裏表

 ロシアのドライバーは算数がとても得意だ。速度制限の道路標識を見るごとに、その速度に、自動的に20 km / hを加える。それがスピード違反の罰金基準なのだ。一部の地域では、速度制限に10~15 km / hを加えるところもあるが、全体としてそれは例外である。大都市では、「速度制限+20」というルールが最も一般的だ。

 あなたが速度制限に従うか、またはそれより遅く走ると、ドライバーのなかには、あなたが初心者かアホだと思って、それなりの態度に出て、軽蔑する者もいるだろう。あなたがあんまりゆっくり運転すれば、警官に止められることさえある。警官の論理は、つまり、あなたは酔っぱらっているので、事故を避けるために極度に慎重に運転しているのだ、ということになる。

 

ルール2:他のドライバーと視線を合わせないこと

Getty Images

 もしあなたが誰かの走行の邪魔をしたり、何か間抜けなことをしでかしたときは、そのドライバーの目を見ないこと。あなたは睨みつけられるだろうし、それをまた睨み返せば、争いが起きるかもしれない。

 最良の選択肢は、あなたの窓に錫メッキすること。あなたは別に水族館を運転するわけではないのだから、問題ない。ロシア人ドライバーの多くが錫メッキしているのはそのためだ。メッキのせいで500ルーブル(約900円)の罰金をとられることもあるが、それでも彼らは、フロントガラスやフロントサイドガラスの着色を止めない。

 

ルール3:ターンシグナルは滅多に使わない

 これらの車がまだ空を飛んでいなくて本当によかった!ロシアの道路では、どの車がいつどんな方向に行くか分からない。初心者、女性、またはやたらと暇な人だけがわざわざターンシグナル(方向指示器)を使う、と思っているドライバーもいる。

 しかし、ハザードランプは広く使われている。ターンシグナルなどあずかり知らぬドライバーも、このランプは使うのが好きだ。例えば、彼らがあなたの前で急に曲がるとき、すぐにオンにする。もしかすると、「ごめんね~」とか「失せやがれ!」とか言いたいのかもしれないが、定かではない。

 一般的には、ハザードライトは、「ありがとう」または「注意!駐車場のこの狭い場所にバックしているから、もし私を止めたかったらクラクションを鳴らしてくれ」などを意味するだろう。

 

ルール4黄信号の最後の2~3秒は他の車に注意!

 ロシアのドライバーはこう考える。青信号の点滅または黄信号を見たら、思い切りぶっ飛ばすべきだ、と。でも、そんなとき、あなたはあまり早くスタートしないように。それらのシューマッハたちの相手をするより、後ろで2〜3回警笛をビービー鳴らされるほうがマシだから。

 

ルール5:渋滞の覚悟をされたし

ウラジーミル・セルゲエフ/ロシア通信

 もしあなたが、モスクワ(または他のロシアの大都市)で、がら空きの道路で運転しているのに気がついたら、ルートを確認したほうがいい。もしかして、その道はあなたを世界の終わりに連れて行くのではあるまいか?…ロシアの都市に渋滞のない時間と場所を見つけるのは難しいのだから。

 リアルタイムで道路交通情報を表示するYandex.MapsやGoogle Mapsなどのアプリを使うと、時間が節約できる。Yandexは、向こう数時間の状況も予測する。あなたが完全に渋滞にはまり込み、止まってしまったら、異文化を受け入れる準備をしよう。

 ロシアの交通渋滞には独自の“経済活動”があり、例えば、物乞いをする人、車の充電器、花束、ハンドスピナーを売る人、チラシ、無料の新聞を配る人などが現れる。

 もう一つ面白いのは、道路の端を効果的に使用しようとする賢い人たちだ。彼らはウンカの如き他の車を尻目に、道端にフェンスや監視カメラが現れる前に、前方の道路の間隙に食い込もうとするのだが、かえってまずいことになるのが落ちだ。

 

ルール6:車のサイズも重要だ

 ロシアの道路で誰が譲るべきかについて、主なルールが2つある。1つ目は、ロシアに限らず普遍的なものだ。すなわち、どんな愚か者にも道を譲るべきである。彼らはいつもやたらと急いでいて、スピードなど気にせず、道路の端を走ったりする。ターンシグナルも使わない。そういう連中は放っておくのがあなたにも好都合だろう。

 もう一つのルール。イマイチ確信がもてないときは、あなたのより大きな、あるいは高価そうな車は、先に行かせよう。まるで中世みたいに聞こえるかもしれないし、知的でもないかもしれないが、寛大になろうではないか。彼らが自由な社会に生きるようになってから27年しか経たないのだ。だから、大型の黒塗りのSUVには遊ばせておこう。そういうのを放っておいて、寛大ぶるのが得策だ。

***

 虎の巻は以上だ。安全運転で、ロシアでのドライブを楽しもう。ダッシュカメラを使用することをお忘れなく。あなたがどんなスバラシイ場面に遭遇するか分からないのだから。

 

もっと読む:なぜ車載カメラの普及率が高いのか>>

古代ルーシの清涼飲料水7選

$
0
0
2.     モルス

Legion Media

 モルスとは果汁を水で割った清涼飲料水。ベリーのモルスは古代ルーシの本「家庭訓」が書かれた時代にすでにあった。種類はクランベリー(コケモモ)、ブルーベリー(セイヨウスノキ)、ラズベリー(エゾイチゴ)、カラント(スグリ)、チェリー(サクランボ)のモルス。

つくり方は、新鮮なベリーを裏ごしして汁を取り、残った果皮と砂糖を別で煮て、冷めたらそこに汁を注ぐ。涼しい場所に置くと、約1週間保存可能。

 

4.     キセリ

Legion Media

 キセリはでんぷんの入ったトロトロの飲み物(食べ物)。伝統的なのはオーツ麦のキセリ。夏場に冷たくしたキセリをメイン料理として食していた。オーツ麦のキセリは、オーツ麦粉に沸騰したお湯を注ぎ、ペチカで焼く。現代ロシア人になじみ深いのは、フルーツのもの。19世紀初めに登場したフルーツのキセリは、貴族の家庭のとてもおしゃれな飲み物だった。ソ連時代には、お湯で溶いて鍋で加熱するだけでできあがる、乾燥(インスタント)キセリが登場した。子どもたちは火を使わずに、乾燥キセリをそのままかじって、フルーツの味を楽しんでいた。

 自分でつくる場合は、ベリーなどの好きなフルーツを煮る際に、片栗粉またはコーンスターチ大さじ1杯と砂糖を加える。これだけでできあがる。

 

6.     スィチ

Vostock-Photo

 スィチまたはスィタは蜂蜜入りの甘露水で、古代ルーシで紅茶が登場するよりも前に飲まれていた。冷ますと味が変わるため、冷たくして飲むことが多かった。

 蜂蜜を沸騰させて、裏ごし(ろ過)し、冷まして、クローブやシナモンなどのスパイスを加える。

 

紙幣を見ながら地理を学ぶ

$
0
0

 マップの見方。この地図には、紙幣に印刷されているロシアの名所・旧跡すべてが表示されている。一枚の紙幣(一つの街)に複数のランドマークがあるため、地図を拡大して好きなマークをクリックするか、または左上隅のボタンを押して一覧から名所・旧跡を選択し、それぞれの画像と名称および説明を表示する。

 

1. 10ルーブル紙幣

Global Look Press

 これはすでに珍しい紙幣。10ルーブルは2012年に硬貨になったため、見つけたら土産として保管しよう。

 表面に印刷されているのは、シベリアの都市クラスノヤルスク。左はコムナリヌイ橋、右は聖パラスケヴァ金曜日小礼拝堂。市の目抜き通り、平和大通りを歩いていると、どちらも見えてくる。裏面に印刷されているのはクラスノヤルスク水力発電所。

 地元の住民は10ルーブル紙幣が廃止されることを知ってがっかりし、代わりに記念碑をつくることを決めた。2011年、銅の「チリク」(10ルーブルを意味するスラング)がお目見えした。

 

2. 50ルーブル紙幣

Global Look Press

 こちらはサンクトペテルブルク。表面にはネヴァ川を象徴する女性像と首座使徒ペトル・パウェル大聖堂が印刷されている。裏面にはワシリー島の旧証券取引所とロストラの灯台柱が印刷されている。

 

3. 100ルーブル紙幣

Global Look Press

 この茶色い紙幣のモチーフはモスクワのボリショイ劇場。表面には太陽神アポロンと四頭立て馬車が、裏面には劇場の正面が印刷されている。

 

4. 500ルーブル紙幣

Global Look Press

 この紫色の紙幣はロシア北部に案内してくれる。アルハンゲリスク市のピョートル大帝像、背景には帆船とアルハンゲリスク港が印刷されている。裏面はソロヴェツキー修道院。

 

5. 1000ルーブル紙幣

Global Look Press

 2001年からこの緑色の紙幣になっている。2006年まで最高額の紙幣であった。表面には、中世の統治者ヤロスラフ賢公像が印刷されている。背景には、ヤロスラフ賢公が創設した現ヤロスラヴリ市の市章、カザンの生神女イコン小礼拝堂、洞窟の生神女イコン教会鐘楼、救世主顕栄大聖堂生神女進堂祭教会の聖なる門がある。裏面にあるのは17世紀の有名な前駆受洗イオアン大聖堂。

 

6. 5000ルーブル紙幣

Global Look Press

 2006年に登場した最高額の紙幣。ハバロフスク市がモチーフとなっており、アムール川と、19世紀の東シベリア総督で、ハバロフスクを創設し、アムール川を中国からロシアに取り戻したムラヴィヨフ・アムールスキー像が表面に印刷されている。

 裏面にあるのはアムール川にかかる橋。

 

7. 2000ルーブル紙幣

ウラジオストク市とルースキー島を結ぶ「ルースキー(ロシア)橋」= アレクセイ・クデンコ/ロシア通信

 10月に発行予定の新紙幣には、ロシア極東の主要なシンボルであるヴォストチヌイ宇宙基地、ウラジオストク市のロシア橋が描かれる。

 ウラジオストク市は一般投票で選ばれたが、結果は予測可能であった。ロシアの人気バンド「ムーミー・トローリ」には、「ウラジオストク2000」というヒット曲がある。

 

8. 200ルーブル紙幣

沈没船のモニュメント=ウラジーミル・アスタプコーヴィチ/ロシア通信

 この新紙幣が発行されるのは2017年末の予定。200ルーブル札は何度か発行されている。最近では1990年代に流通していた。今回はクリミア半島の港町セヴァストポリと、その主なシンボルである沈没船のモニュメントと古代ギリシアの都市ケルソネソスの風景が印刷される。

もっと読む:ロシアへの無料電子ビザの申請方法>>


作家ソローキンが描く不確かな未来

$
0
0

 現代ロシア作家、ウラジーミル・ソローキンの作家としての経歴は、1980年代にさかのぼるが、最近20年ほどの間、その作品は、衝撃とセンセーションと不可分だった。彼は、様々な文学的スタイルを駆使する名人であり、テキストを徹底的に「解体」することを好み、不条理な“超暴力”のレベルにまで持っていった。虐殺、倒錯、猥褻を描くのが「快楽」だったから、自然、その評判も多少なりともスキャンダラスにならざるを得なかった。

 しかしその後、ソローキンはアプローチを変え、2006年の小説『親衛隊士の日』からは、さほど遠くない未来の、想像上の世界を描くことに集中。最新の小説、『テルリヤ』(2013)、『マナラガ』(2017)は、21世紀後半を舞台とする。

 ソローキンが創る、未来のディストピアの世界地図は、我々の住む世界とはまったく異なっている。ヨーロッパ諸国は、ロシアを含め、より小さな国に分裂し、生活はむしろ野蛮だ。だが、進歩は止まることがなく、この奇妙な世界にはまだ、いくつかの画期的、というかぶっ飛んだテクノロジーがある。

 

『テルリヤ』の釘

 テルル(tellurium)は原子番号52の、実在する元素だが、ソローキンの小説に出てくる、同じ名の金属は、これとは全然違う。ソローキンのテルルは、無限の至福に人を浸らせ、エネルギーと知性、極端な幸福感に導くだけでなく、死者とのコミュニケーションさえ可能にする完璧なドラッグだ。

 ソローキンは、インタビューinterviewの中でテルルについて、「スーパードラッグであると同時にスピリチュアルな道に導くものでもある」と説明した。

もっと読む:ソローキンにインタビュー

 この金属が脳と直接接触するためには、誰かに頭の中に釘を打ち込んでもらう。そうすることで、一定量を注入するわけだ。もちろん、この手術は、熟練の専門家だけに可能である。彼らは「大工」と呼ばれ、ユーラシア周辺を旅しながら大金を稼いでいる。

 テルルそのものも非常に高価で、多くの国で禁止されており、そもそも危険でもある。これを打ち込んだ後、生き残れない確率は12%にものぼる。にもかかわらず、『テルリヤ』の世界では、多くの者が、この貴金属を探し求め、そのスバラシイ効果を享受することを止めない。

 

スーパーガジェット

 スマートフォンやタブレットは、もう忘れよう。将来、もしソローキンが正しいとすれば、人類はずっと面白いガジェットを楽しむことになるのだから。「ウミニタス」(賢いやつ)は、所有者と話をしたり、形や大きさを変えることができる、人工知能を備えたガジェットだ。『テルリヤ』でソローキンは、このガジェットが本、絵、彫刻などの形になるのを描いている。また、ホログラムを使って、世界の反対側にいる人間を見るだけでなく、物理的に触れながらコミュニケーションすることも可能。

 『マナラガ』では、ソローキンは、さらに進歩的なガジェット、ノミについて語る。これらは、極小のハイテク・インプラントで、人間の髪の毛や脳の中に入れることで、世界のすべての情報にアクセスできる。

 「私のノミのおかげで、12の言語で読むことができる。どんな科学のレクチャーだって読める」と『マナラガ』の主人公は自慢する。ところが、敵が彼を誘拐し、手術で彼のノミを取り除いてしまうと、彼は自分自身が完全に無力だと感じる。人々がガジェットに非常に依存している今日の世界では、これは現実からそう遠くないようだ。

 

未来の焚書は…

 『マナラガ』の主人公についてさらに言うと、彼の仕事は何とも奇妙なものだ。彼はお金を稼ぐために本を燃やす。ソローキンによれば、将来、紙の本はほぼ完全に消え、デジタルで置き換えられてしまい、国の保護下にある美術館に、数部が保存されるだけだ。

 しかし、禁断の果実こそ最も甘いもの。未来の黄金狂たちは、これらの稀覯本を盗み、その紙を燃料に使って料理する。これが、金持ちのための非常にエキゾチックで高価な娯楽とみなされているのだ。こういうパフォーマンスは「ブック・アンド・グリル」と呼ばれ、食事をする人にとっては、どんな本で調理されているかが非常に重要。安い探偵小説では美味いステーキには合わない。トルストイの小説のような類のものが望ましい。

 ソローキンは、このメタファーで、本の将来について深く考えてみたかったという。「人類は、印刷された本と完全に絶縁するわけではない、と私は信じている。 それは、私たちの世界の一部であり、完全に破壊することはできない」と彼はインタビューで語った。

もっと読む:ソ連のSFみたいな変なプロジェクト

プーチン大統領式のシベリアの休暇

ソ連崩壊の一因になった綿

おいしいロシア・朝鮮料理7選

$
0
0

サハリン島

 ロシア西部に暮らすロシア人にとって、朝鮮料理と「朝鮮サラダ」は同義語である。朝鮮サラダとは、細切りしたニンジンを、ニンニク、コリアンダー、唐辛子、酢、砂糖、ヒマワリ油でマリネする料理。  だがサハリンの住民の間では、本格的でありながらロシアっぽい朝鮮料理が人気だ。

 サハリン島には約4万人の朝鮮民族がいる。ロシア極東に美食的な貢献をした。地元の香辛料と食材は、新しい料理に融合していった。

1.     パポロトニク

Lori/Legion-Media

 パポロトニク(ワラビ)は最も健康的な朝鮮サラダの一つ。サハリンの先住民の伝統的な食材であるワラビは、島の朝鮮料理に使われている。

Alamy/Legion-Media

 乾燥ワラビを6時間水に浸し、柔らかくなるまで茹でる。そしてワラビをゴマ油、唐辛子粉、ニンニクと和える。

2.     ロプフ

Alamy/Legion-Media

 ロプフ(ゴボウ)は、石油やガスのように、島で簡単に入手できる。  サハリンのゴボウは世界最大で、別の健康的なサラダをつくるために使われている。

 ゴボウの茎は、春の終わりに花が咲いてしまう前に収穫される。ゴボウを塩水で茹でて、皮をむく。細切りにして炒め、唐辛子、タマネギ、ニンニク、醤油で味付けする。一般的な朝鮮人は、このレシピに驚く。

3.     モルスカヤ・カプスタ

Lori/Legion-Media

 乾燥したモルスカヤ・カプスタ(昆布)はアジアの多くの国で人気があるが、サハリンの朝鮮人はサラダで使う傾向にある。

 昆布を1時間水に浸し、約20分茹でる。細かく切って、細切りにしたニンジン、角切りにしたタマネギと一緒に炒める。  サハリン以外の住民にとって、このサラダは慣れ親しんだ味である。

4.     ピャンセ

vladivostok.travel

 ウラジオストク市のバス停留所の近くで女性たちが販売しているピャンセ(肉饅頭)は、極東の人気料理になった。サハリンのホルムスク港発祥の料理である。朝鮮饅頭はロシア人の味覚に合わせられていった。キャベツと豚肉または牛肉が中身の饅頭であるが、時代に合わせて肉の入っていない饅頭もあらわれた。

5.     ヘ

Alamy/Legion-Media

 サハリン発祥の朝鮮サラダ、ヘは、酢でマリネされたニンジンと生の魚。北太平洋のサクラマスを使用すると最高の味になる。

 ロシア西部では、朝鮮のニンジン・サラダが、誤ってヘと呼ばれることがある。味の違いははっきりしている。

6.     ヘムリタン

Alamy/Legion-Media

 朝鮮料理を知っている人は、このスパイシーな海鮮と野菜のスープ(海鮮鍋)について聞いたことがあるだろう。

 ユジノサハリンスク市のどの朝鮮レストランにもあるスープで、ロシア人好みになっている。本格的な朝鮮料理ほど辛くはなく、野菜よりも海鮮類の方が多い。サハリンには多種多様な海産物があり、ヘムリタンは地元の珍味を一つにした料理である。

7.     シュパリツェ

Alamy/Legion-Media

 シュパリツェ(脚)サラダは真のロシア・朝鮮料理である。タコやイカの脚、ニンジン、リンゴ、ゆで卵、タマネギ、ごま油、唐辛子でつくる。  

 ユジノサハリンスク市やサハリン南部の他の街の店で販売されているほとんどの朝鮮サラダは、高齢の朝鮮人女性の手作りである。

ロシア語の電話会話の模範と現実

$
0
0
2.     電話で話している時

教科書にのっている表現

 “Повисите на линии”(パヴィシーチェ ナ リーニイ Povisite na linii)または“Побудьте на линии”(パブーッチェ ナ リーニイ Pobud’te na linii)「(電話を切らずに)しばらくお待ちください」は、通常、別の電話を受けている時に相手に待つよう頼む表現。

 “Вас плохо слышно”(ヴァース プローハ スルィシナ Vas ploho slyshno)「よく聞き取れません」は、通信状態が悪くて相手の声を聞き取りにくい時に使う表現。

 

ロシア人が実際に使う表現

 “Вы пропадаете”(ヴィ プラパダーエチェ Vy propadaete)「あなた消えてる(声が途切れてる)」は、通信状態が悪くて相手の声を聞き取りにくい時の砕けた言い方。

 “Это не телефонный разговор”(エータ ニェ テレフォーンヌイ ラズガヴォール Eto ne telefonnyi razgovor)「これは電話の会話じゃない」は、電話で話すには重要過ぎる話またはプライベートすぎる話であることを伝える、ロシアで一般的な言い方。言えないのか、会って話す必要があるのか。いずれにせよ、ロシア人と電話で話すと、この表現を聞くことがあるだろう。

 

KGBが摘発したスパイの小道具

$
0
0
1. 刃のついた仕込み杖

刃のついた仕込み杖=イリヤ・オガリョフ

 内部に刃を隠した仕込み杖は、外国のエージェントが接近戦に使った。刃は鞘から引き出すタイプもあれば、折りたたまれているのを広げるタイプもあった。刃を出すと、杖は槍のようになる。杖の頭が重いものもあり、それをスパイたちは、自分の指さながらに使いこなして戦った。

 

ロシアのコンテンポラリー・ジャズ

$
0
0
 ソ連時代、西側のイメージが強く、否定的にとらえられていたジャズ音楽に対する、一般的な感覚を示す表現があった。「今日彼はジャズを演奏し、明日母国を売る」と。だがソ連が崩壊して25年が経過し、ジャズはロシアで繁栄している。

 

2.     テア・メイツ(Therr Maitz

 主に海外でソフトジャズと電子音楽を演奏している、ロシアの有名なバンド。

 リーダーのアントン・ベリャエフは、10代の頃からジャズに夢中だった。わずか14歳でバンドで演奏するようになる。2004年、テア・メイツを結成し、英語でオリジナルの歌をうたっている。2016年MTVヨーロッパ・ミュージック・アワードでは、ロシア最高のグループと認められ、受賞した。シゲット、ニュー・ウェーブ、アルファ・フューチャー・ピープルなどのヨーロッパの音楽祭には、ゲストとしてよく登場している。

 

4.     ダニエル・クラメルのジャズ・トリオ(Jazz Trio of Daniel Kramer

 ピアニストのダニイル・クラメルは、ロシア・ジャズの主要な一人。ヒット・チャートにランクインしているため、コンサートの成功は間違いなし。優れた作曲家で、さまざまなスタイルに敏感というだけでなく、経験豊かな指導者、テレビ司会者でもある著名人。サランスク、エカテリンブルク、サマラなどの都市で開催されるジャズ祭の美術監督でもある。

 

6.     イヴァン・ファルマコフスキーのカルテット(Quartet of Ivan Farmakovsky

 才能ある音楽家イヴァン・ファルマコフスキーは、ロシアの主要なジャズ・ピアニストの一人。これまでにアルバムを3枚だしており、うち2枚はニューヨークでライアン・カイザー、ウゴンナ・オケグォ、ジーン・ジャクソンなどのアメリカの優れた音楽家とコラボしてレコーディングしたもの。

 

8.     アガフォンニコフ・バンド(The Agafonnikov Band

 ピアニスト、スムーズ・ジャズとソウルの達人ウラジーミル・アガフォンニコフは、2004年にこのバンドを結成した。以来、国際フェスティバルに積極的に関わり、ドイツとポーランドの音楽大会では栄えある賞を受賞している。アガフォンニコフ・バンドは、オリジナルのヒット曲やカバー曲のどちらも演奏している。

 

10.  アカペラ・エクスプレス(A'Cappella ExpreSSS

 6人の若いボーカリストが即興ジャズ・グループを結成した。ベースギター、サクソフォン、ドラムの当て振りパフォーマンスは見事で、コンサートを訪れる観客は見とれている。

もっと読む:若き音楽家ニコラ・メリニコフ>>


なぜソ連は月に降り立てなかったのか

$
0
0

 1960年代初頭、ソ連は宇宙開発競争の勝者にふさわしいと考えられていた。世界初の人工衛星の打ち上げに成功し(1957年10月4日、スプートニク1号)、世界初の有人宇宙飛行に成功していた(1961年4月12日、ボストーク1号、ユーリ・ガガーリン宇宙飛行士)。

 ガガーリン宇宙飛行士の飛行からわずか43日後に、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領は月に人を10年以内に送ると宣言。新たな宇宙開発競争がアメリカとソ連の間で始まった。なぜソ連はこの競争に負けたのだろうか。

 

2つの相反する月計画

 ソ連の最高指導者ニキータ・フルシチョフ共産党第1書記(任期1953~1964年)は、感情的で予測不可能な人物として知られていたが、月面着陸計画への取り組みも例外ではなかった。

 宇宙船スプートニクとボストークの発射で大きな役割を果たしたソ連のエンジニアで宇宙船設計者セルゲイ・コロリョフは、フルシチョフ第1書記から、月計画の国家資金がなくなりつつあると言われた。だがこの1年後の1964年、逆のことを言われた。「アメリカ人には月をゆずらない!必要な資源すべてを取って良し!」

 だが政府と科学者の間に直接的な命令系統を設けたわけではなく、政府は月の接近通過計画と着陸計画という相反する計画2つを設定した。片方の計画をコロリョフが、もう片方の計画をヴァレリー・チェロメイが率いた。

もっと読む:ソ連の宇宙往復船ブランを探して

 世界初の宇宙遊泳を果たしたアレクセイ・レオノフ宇宙飛行士(1965年3月18日、ボスホート2号)は当時、コロリョフとともに作業をしていた。計画は最初から失敗に向かっていたという。「コロリョフとチェロメイの関係はとても複雑で、2人の競争が害になってしまった」と、2010年にコムソモリスク・プラウダ紙に話している。

 同じくコロリョフとともに作業をしていた、ロケット設計者ボリス・チェルトクも、同様の話をしている。チェルトクの回顧録「ロケットと人々」によれば、コロリョフはライバルの科学者らから批判を受け、N-1ロケット(有人月飛行用)を簡素化し、予算を減らすことを余儀なくされたという。これが間違いであった。

 これでも足りないかのごとく、月面着陸計画に取り組んでいた人々は計画から外されたり、代えられたリした。コロリョフも1964年に指導者の座から引きずり降ろされた。そして、1966年に死亡した。「我々宇宙飛行士にとって、このできごとはほとんど世界の終わりだった」とレオノフは話している。レオノフによれば、コロリョフが死去した後、政府が月計画を軽視するようになったという。

 

他の目標

 チェルトクによれば、1960年代はアメリカとソ連の関係がとても緊張した時代で、世界は核戦争の危機にあった。ガガーリンの成功で優位に立ったソ連だが、アメリカがソ連の20倍の兵器を保有していたことが明らかとなった。ソ連はこれに脅威を感じ、宇宙開発の予算を、兵器の増強に配分するようになっていった(フルシチョフ政権下でも、その後の政権下でも)。

もっと読む:ロシア語を学ぶ外国人宇宙飛行士

 これにより、ソ連は宇宙技術でアメリカの後ろに着くことになった。1969年にアポロ11号を宇宙に送ったアメリカのサターンVロケットは、140トンを運搬できるものだったが、コロリョフとその後継者が建造したソ連のN-1ロケットには、75トンの運搬能力しかなかった。また、アメリカのロケットは液体水素を使用していた。ソ連が使用していたのは灯油。

 結局、ソ連が行った4回の試験打ち上げは失敗に終わった。アメリカについては、1969年7月20日に、アームストロング船長とバズ・オルドリン宇宙飛行士が人類発の月面着陸を果たした。ソ連政府は、アメリカが勝利した後で月計画に資金を投入する必要はないと考えた。

 チェルトクは著書の中で、ソ連が資金を節約したことで、1980年までに戦略的核均衡を実現できたと言っている。この話は別の機会に。

 

*本記事はロシアに関する人気の検索ワードを集めてそれぞれの問題に答える、「なぜロシアは」シリーズの一つ。

 

日本に輸出されるコルバサという食品

$
0
0

 コルバサは、ソ連料理とロシア料理で特別な地位を占めている。「コルバサの歴史は国の歴史」と、私の祖母の友人ガリーナ・ワシリエヴナは話す。ロシア革命前、コルバサは貧しい人々の食料であったが、ロシア革命後は貧しい人々がなかなか買えなくなったという。

 種類はとても豊富だ。燻煙されたもの、茹でられたもの、細いもの、太いもの、さまざまな風味やスパイスの入っているものなど。味が異なるように、値段も異なる。安価なドクトルスカヤ(ボローニャ・ソーセージのような茹でコルバサ)から、高価な霜降り脂肪の燻製サラミまでと。大きなスーパーに行くと、必ずコルバサの長いショーケースがあり、好きな種類を買うことができる。

思い出のドクトルスカヤ

もっと読む:ソ連の子供の大好物TOP8

 子どもの頃はドクトルスカヤが好きだった。白い棒パンを切ってバターを塗り、厚く切ったドクトルスカヤをのせると、それは嬉しい気持ちになったものだ。ドクトルスカヤがトイレットペーパーからつくられているなんて噂もあったが、子どもたちにはどこ吹く風だった。他には「コルバスヌイ」チーズ(燻製チーズ)が好きだった。祖母によれば、ドクトルスカヤ(ドクター)という名前がついたのは、コルバサの健康的な種類と考えられていたからだという。

 チャイナヤ・コルバサ(紅茶請けコルバサ)やオデリナヤ・コルバサ(個別コルバサ)と呼ばれる茹でコルバサは、安くて質が低い(あまりおいしくない)と考えられていた。そのため、家庭では煮たり、炒めたりして食べられていた。

ソ連時代のレシピ本のページ

「コルバサに近づけた?」

 サラミ、ボローニャ・ソーセージ、コルバサは、いわば国民食になったが、これらの国民のお気に入りの加工食品さえ、1960年代に物不足が起こり、他の食品とともに店頭から消えたこともある。ガリーナ・ワシリエヴナは、風刺的な歌を聴きに行ったことを思いだす。「専門店にも安物のコルバサさえない」と。この歌は検閲を通らず、「専門店にはたくさんの種類のコルバサがある」という歌詞に変えることになった。ドクトルスカヤ(茹でコルバサ)は、実はぜんぜん健康的でないのに、健康的な食品というのが売りになっていることを考えれば、この歌でも、現実からかけ離れているのが逆に十分な風刺になっている。

 モスクワでは、食卓に並ぶコルバサの種類で、社会的な地位がわかった。祖母によれば、あらゆる種類のコルバサを販売する特別な店があったが、購入できるのは社会の上層部にいる人のみだったという。「当時、人々は共産党の機関に就職しようとがんばっていた。良い仕事は『コルバサに近づく』と言われた。『新しい仕事は何?』、『コルバサに近づけた?』なんて会話が交わされていた」と祖母。

行列を短くするための作戦?

もっと読む:ソ連スタイルのレストラン10選

 ソ連で最も有名だった食肉加工工場には、「おいしくて健康的な食べ物についての本」を書いたソ連の政治家アナスタス・ミコヤンの名前がついていた。祖母の友人ワレンチナ・ミハイロヴナは、「ヤイチナヤ」(卵入りのレバー・コルバサ)を買おうと、ミコヤン工場の店の行列に並んだことを話してくれた。行列に並んでいた女性の一人が、行列の大衆に、なぜヤイチナヤという名前なのかと聞いたら、牛の睾丸が入ってるからだと言われたという(ロシア語で卵を意味するヤイツォまたはヤイチナヤという言葉は、口語で睾丸も意味する)。これによって行列は短くなったが、ワレンチナ・ミハイロヴナは気にせずに並び続けたという。コルバサは店で購入する食べ物であり、共同住宅「コムナルカ」でつくることは不可能だった。材料を推測することも一種の“国技”であった。

 ソ連では、100種類以上のコルバサがつくられていた。コルバサのとても美しい外観、スパイシーで繊細な香りは食欲を高めたという。

サンクト目抜き通りの穴場5選

$
0
0

 地元住民にネフスキーと短く呼ばれているネフスキー大通りは、サンクトペテルブルクの中心通りである。18世紀初め、モスクワとノヴゴロドに続く主要路の一部として計画され、現在は旅行者の観光スポットになっている。

 ネフスキーと名づけられたのは1781年。それ以前は「ネフスキー修道院への道」と呼ばれていた。修道院は今日、アレクサンドル・ネフスキー大修道院と呼ばれている。ソ連時代に入ると、「10月25日大通り」と改名された。

 ここは市内きっての重要な通りで、象徴的な建物、歴史的な建物の数々が並んでいる。カザン聖堂や血の上の救世主教会は、とても有名である。この通りのあまり知られていない注目スポットを、ロシアNOWが特集する。

シンガー会館(本屋)、ネフスキー大通り28

ドーム・クニギ(本屋)=Legion Media

 アメリカのシンガー裁縫機械会社は1902年、ネフスキー大通りとグリボエドフ運河が交差する場所の角地を購入し、自社のロシア法人とショールームを建設した。この建物のデザインは当時、サンクトペテルブルクでは革新的かつ大胆であった。たとえば、高層ビルの建設を可能にした金属フレームがいち早く使用されている。シンガーは当時、事業をアメリカ国内と海外で急速に拡大しており、ロシア帝国は最大市場の一つであった。当初、11階建て以上のネフスキー大通りきっての高い建物が建設される予定であったが、冬の宮殿(23.5メートル)よりも高い商業施設を建てることは土地区画法で禁止されていた。皇帝ニコライ2世は、7階建てを限度としてアールヌーボー様式の建物に建築許可をだした。建築家パーヴェル・シュゾルは、大きなガラス製の地球儀とアメリカの国章で建物の上を飾った。

 シンガー会館は今日でも、ネフスキー大通りの最も重要なランドマークの一つである。ソ連時代にドーム・クニギ(本屋)になり、今日でも市内最大の本屋のままで、文芸カフェもある。建物の上階部分の2階層には、ロシア最大の交流サイト(SNS)フコンタクチェの本社が入っている。

エリセエフ兄弟商会、ネフスキー大通り56

エリセエフ兄弟商会=Legion Media

 ロシアの有名な商人エリセエフ兄弟が1903年に建設した、アールヌーボー様式の建物。買い物客を魅了しようと、ステンドグラスの窓やブロンズの内装のある、贅沢な建物にした。ソ連時代に店名が「第1食料品店」に変わり、1990年まで維持された。

エリセエフ兄弟商会のお客さん=ロシア通信/アレクセイ・ダニチェフ撮影 ネフスキー大通りを歩いてこの店の前に来たら、立ち止まって見てみよう。有名なくるみ割り人形が動いている窓はとても魅力的だ。改装された美しい店内には、有名なおいしい菓子が販売されている。

路上画家、ネフスキー大通り32~34

ネフスキー大通りの画家=Legion Media

 画家は、絵画のように美しいサンクトペテルブルクの雰囲気を伝える。サンクトペテルブルクのカトリック聖カタリナ教会の前に毎日集まる、自称「フリー・アーティスト」たちだ。ここで活動を始めて20年、40年になる画家もいる。さまざまな画家の芸術スタイルを眺めながら、自分の肖像画を描いてもらえば、サンクトペテルブルク最高の土産を手にできるかもしれない。

アヴロラ映画館、ネフスキー大通り60

アヴロラ映画館=Legion Media

 100年以上前に映画時代が始まった時、ここはロシアで最もモダンで華やかな映画館だった。「ピカディリ(ピカデリー)」という名称で1913年に開館し、豪華さで話題になった。無声映画の時代、交響楽団が映画のシーンに合わせて音楽を演奏し、さまざまな有名人がここに出入りしていた。ウラジーミル・ナボコフは、自伝「向こう岸」(1954年)で、この映画館について書いている。

 現在の「アヴロラ(オーロラ)」に改名されたのはソ連時代の1932年。ピカデリーという外国語はソ連の労働者にとって無意味な言葉であった。アヴロラは1917年ロシア革命の伝説的な海軍巡洋艦アヴロラにちなんでつけられたもの。館内の歴史的な内装は当時のままで、ここは映画館でもあり、真の映画博物館でもある。

アニチコフ橋、ネフスキー大通り39および41

アニチコフ橋=Legion Media

 橋はサンクトペテルブルクのアイデンティティーに欠かせない。ネフスキー大通りのアニチコフ橋は市内有数の歴史ある古い橋で、フォンタンカ川にかかっている。この美しさは、プーシキン、ドストエフスキー、ゴーゴルといった作家から称賛されてきた。ピョートル・クロトの4つの銅像が有名である。今日、アニチコフ橋はレニングラード包囲戦の記念碑とも呼ばれている。独ソ戦中にひどく損傷を受け、その悲劇的な年の記憶として、ナチスドイツの砲弾の痕跡が改修されずに残されている。

もっと読む:トヴェルスカヤ通りの歴史的建築>>>

もっと読む:ウラジオ目抜き通りの名所8選>>>

ロシアに暮らす3つの方法とコツ

$
0
0
1.     学生ビザを取得して数年暮らす

 ロシアで一定期間過ごすための最も簡単な方法は、留学である。無料で留学して、寮に暮らすこともできる。多くの大学には外国人枠というものが設けられており、大使館を通じて申請できる。留学が決まると、招待状が送られてくる。これで無料の学生ビザを手続きする。

 たとえば、韓国人のチユン・チェさんは、サンクトペテルブルク神学アカデミーで学んでいる。正教会の司祭になって、ソウルに戻り、現地のロシア人社会のために礼拝を行えればと夢見ている。チユン・チェさんはロシア語をとてもよく知っている。第一に、真剣にロシア語を学んでおり、第二に、ロシア人学生と一緒に寮暮らしをしているため。

自転車で西から東へ9000㌔走行

Viewing all 2079 articles
Browse latest View live